京マチ子はなぜ『黒い十人の女』に出演しなかったのか


黒い十人の女 予告篇

 

 映画史には無数の“if”がある。「もし、あの企画が実現していたら……」「もし、あのキャストが実現していたら……」。死んだ子の歳を数えることの虚しさは承知の上で、そうした空想に耽ることも映画の面白さのひとつだろう。その意味で、先ごろ亡くなった京マチ子が出演したかもしれない『黒い十人の女』という“if”を提示してみるのも一興だろう。 

 

市川崑とテレビ

 本作が製作された1961年、市川崑は空飛ぶ鳥も落とすほどの存在だった。『鍵』(1959) 、『野火』(1959)、『ぼんち』(1960)、『おとうと』(1960)と、一筋縄ではいかない文芸映画を華麗なテクニックと見事な語り口で矢継ぎ早に映画化し、いずれも成功させたのだから、次なる動向に注目が集まっていた。

 1960年1月31日の『讀賣新聞』が、ブルーリボン監督賞を受賞した市川崑へインタビューを行っている。受賞作の話もそこそこに、今後の企画に話が移った。市川が挙げた新作構想は、以下のようなものだった。アルベール・カミュ原作の『ペスト』、オペレッタ『ミカド』、オリジナル企画では「人種問題と父と子という血縁関係をからませたもの」があり、そちらは「父もむすこも同じ朝鮮人、しかし父は国籍が朝鮮、むすこは日本。(略)北朝鮮帰還問題などをバックにして、社会悪という人間のはきだす不条理との戦いをえがこうとするもの」だという。また『雨』というタイトルの短篇映画も考えており、「しずかな雨、驟雨、放射能の雨などあらゆる雨をテーマにして天と地の間のハーモニーをみつめる」と語っている。

 残念ながらこのときに語られた4本の企画はいずれも実現することはなかったが、この時期、市川は映画で傑作を連打する一方で、積極的にテレビにもコミットしていた。1959年に『恋人』『冠婚葬祭』『恋飛脚大和往来・封印切りの場』『隣の椅子』、1960年に『足にさわった女』『駐車禁止』、1961年に『檸檬』『破戒』が放送された。いずれも日本テレビの番組だが、映画と平行してテレビドラマの演出を――単発ドラマが多いとは言え――手がけたというのは凄まじい。

 1960年10月28日には、日本テレビが市川を演出顧問として迎えることを発表している。現役映画監督の就任は初である。創世記の日本テレビでは、ドラマの充実を図るために映画監督を積極的に登用していた。マキノ雅弘山本薩夫山村聡井上梅次らが単発ドラマの演出にあたっていたが、最も多くの作品を手がけたのが市川である。この就任劇には実は裏があった。翌月放送される市川演出の『駐車禁止』が芸術祭参加作品となっていたが、局を代表して芸術祭に参加する作品を、外部の監督に丸々作らせることに局内で異論が出た。つまり、例え作品の質が評価されたとしても、日本テレビではなく、市川崑だから評価されたことになりはしないかという意見である。そこで、日本テレビの〈演出顧問〉という地位に付けて内部の人間ということにしておこうという折衷案が生まれたのである。

 あだしごとはさておき、市川はテレビ独自の面白さに魅せられていた。曰く「今の状態じゃ、テレビ・ドラマは映画のあとをおっかけているだけだと思う。それじゃ、いつになってもほんとうのテレビ・ドラマはできない。テレビ・ドラマは音が先で、絵があとからくっついてゆくものだから、映画よりもむしろラジオ・ドラマに近いものだ。だから、演出も映画とは本質的に違ってくるべきだね」(『讀賣新聞』1960年1月31日)

 この時期に手がけたテレビ作品は、『恋人』『足にさわった女』は映画のセルフリメイク、『檸檬』は映画では通らなかった企画をテレビに持ち込んだもの。全9回の連続ドラマ『破戒』は、好評なことから翌年に映画でセリフリメイクされるなど、映画の下にテレビがあるのではなく、両者の特性を活かした上で同じ題材を異なる表現で映像化したり、映画とテレビを行き来する市川のスタイルは、今も鮮やかに映る。

 

大映三大女優競演企画『黒い十人の女

 1961年最初の市川作品は、前年にテレビで撮った『駐車禁止』の映画化を予定していた。これは売春歴のある女性と結婚した防犯課の巡査を主人公にした夫婦の物語だが、市川は「もっと警察機構などを調査しなければならない」(『夕刊 讀賣新聞』1961年1月5日)という理由で製作を延期。代替企画として、かねて考えていた『黒い十人の女』に切り替えた。これは、テレビ局勤務の男が妻以外に様々な職種の女性たちと関係を持ち、妻が彼女たちを集めて男の殺害を持ちかけるという内容で、1月いっぱいで和田夏十による脚本が書かれ、春にかけて撮影を行うスケジュールが発表された。テレビの世界を覗き見ていた市川が、今度はそれを映画で描こうという企画である。まさに両者を自在に往来してきた市川らしい作品である。

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和田夏十による『黒い十人の女』構成案(『成城町271番地』白樺書房』)より

 この段階ではテレビ局勤務の男を船越英二が演じることが決定していたものの、彼をめぐる女たちは「まだ誰をどの役にということも決めていないし、第一、ご本人たちのOKもまだない」(前掲)という状況だったが、大映の永田社長は、本作を京マチ子山本富士子若尾文子の〈大映三大女優競演作〉にする意向を打ち出し、それを受けて市川も、「京さんには根強い庶民的なたくましさ、山本さんには女のあらゆる武器を利用する生活力、そして若尾ちゃんのポーカー・フェイスには現代の感触をマスターしたものがある。そういった三人個々の役柄の魅力に加えて、さらに組み合わせのおもしろさからくる新鮮なプラス・アルファを出してみたい。それからフリーの大女優にも出演していただきたいと考えている」(前掲)と構想を明かした。

 この〈フリーの大女優〉とは、岸惠子である。『おとうと』で初めて組んで以来、直ぐにテレビドラマ版『足にさわった女』にも起用したところから見ても、すっかり市川の気に入るところとなった岸に『黒い十人の女』の参加を求めたのは当然だろう。和田夏十による脚本の完成を待ってキャスティングの作業は本格化し、昭和36年3月6日付けの『夕刊 讀賣新聞』は、岸惠子が舞台女優役、山本富士子が正妻役、京マチ子はテレビ台本の印刷会社社長であり幽霊の役と記している。他に中村玉緒岸田今日子らの出演も決定したが、予定されていた若尾文子はスケジュールの都合で出演が取り止めになったと同記事が伝えている。

 ところが、1週間後には若尾に続いて京マチ子の降板が公表されることになる。

「既報、市川崑監督の『黒い十人の女』に出演する予定だった京マチ子の役が宮城まり子に変更された」(『夕刊 讀賣新聞昭和36年3月14日)

 理由まではこの短報からは知る由もないが、〈大映三大女優競演作〉から2人が降りてしまったのだから、穏やかではない。そのため、京マチ子の降板をめぐって憶測が飛び始める。ちょうど東宝では黒澤明が『用心棒』(1961)の撮影を行っていたが、降板発表後の京がひょっこり顔を出し、黒澤や三船敏郎と談笑する姿が目撃されている。この2人とは『羅生門』(1950)で組んだ仲でもあり、同作を撮影した宮川一夫も久々に黒澤作品への復帰を果たしていた。『用心棒』の撮影は、1月14日〜4月16日まで行われていたので、京が姿を見せたのが3月上旬と仮定すると、撮影スケジュールと付き合わせれば、東宝撮影所で土蔵や念仏堂のセット撮影が行われていた頃である。これまでに見せたことのない京の行動に、これは大映の専属を離れてフリーになる布石ではないかという噂が囁かれ始めた。この噂は、『用心棒』の大ヒットを受けて続編の製作が取り沙汰され始めた頃には、黒澤が次回作には京に出てもらいたがっているという話にまで広がった。

 市川崑京マチ子

 こうした京マチ子をめぐる噂には、市川作品のヒロインをめぐって岸惠子との因縁を指摘する声もあった。

 もともと京と市川は『穴』(1957)で初顔合わせを果たしたが、これは『夜の蝶』(1957)を撮り終えた京の次回作が空いてしまい、一方の市川も製作中の『炎上』が寺院側の反対を受けて撮影延期を余儀なくされ、共にスケジュールが空いているのを聞きつけた永田社長が2人を組ませることを画策した文字通り〈穴〉埋め企画である。とはいえ、実際は、この5年前にも市川は京の主演作を打診されていた。『足にさわった女』(1952)を撮影中の市川のもとへ大映のプロデューサーが現れて、「京主演の現代喜劇を」とオファーしたのだ。その時期の市川は、『恋人』(1951)、『盗まれた恋』(1951)、『結婚行進曲』(1951)など都会派喜劇を得意としており、京にもそういった作品を求めたのだろう(実際、8年後には大映で、市川のプロデュース、弟子筋の増村保造の監督でリメイク版『足にさわった女』が作られている)。

 市川は京を研究して3本の企画を立てたというが、実現直前に中止となった。そういえば、東宝で『足にさわった女』を撮り終えた後に、大映京都の製作で市川は現代劇の『あの手この手』(1952)を突然という感じで東宝から出向して撮っているが、京マチ子主演企画とも関係していたのかもしれない。

 ともあれ、こうした経緯もあり、『穴』で突如、京マチ子主演映画を仰せつかっても、市川は余裕を持って当たることが出来たのだろう。この作品で躍動的な記者を演じた京は七変化を見せ、それまでは時代劇が多く、固定化された役が多かったこともあり、ここで大胆に役柄の転換を果たした。

 少し後になるが、市川による京マチ子評に、こんなことを書いている。

「これまでの京さんは優等生すぎた。感情過多の時代劇演技も優等で免状をもらっている。しかし、これからの京さんには優等生には出せない不協和音がほしい」(『週刊読売』1959年5月3日増大号)

 実際、『穴』以降の市川とのコンビ作を観ると、『あなたと私の合言葉・さようなら、今日は』(1959)では感情を抑制させ、それをさらに過剰に押し進めた『鍵』では能面の如き極端なメイクも用いて感情を押さえ込み、底に潜む〈欲望〉を抽出している。若くしてグランプリ女優と呼ばれ、次の飛躍に伸び悩んでいた京は、市川とめぐり逢うことで一回り大きな女優になろうとしていた。

 おそらく、京にとっても市川と仕事は期するものがあったのだろう。『鍵』を経てからも、小津安二郎の『浮草』(1959)を間に挟んで、京は和田夏十が脚本を書いた田中絹代の監督作『流転の王妃』(1960)、そして市川の『ぼんち』(1960)に特別出演的な枠で顔を出し、さらに市川プロデュースの『足にさわった女』への出演と、1957〜1960年にかけて、京のフィルモグラフィは市川関連作が大きな位置を占めている。それだけに、幸田文原作の『おとうと』を市川が手がけることになったとき、京が出たいと申し出たという説が当時まことしやかに語られたのは、あながち不自然でもない。

京マチ子が出演したがったが、市川監督は岸惠子以外はダメだと断ってしまったからね」(『小説倶楽部』1961年7月特大号)

 もっとも、『おとうと』の年齢設定からすると、1924年生まれの京が演じるとなると大幅に設定を変更せねばならないだけに、果たして本当に京マチ子の申し出を跳ねて、岸惠子を選んだのかは疑問が残る。だが、岸の大映作品への進出が、市川作品のヒロイン交代を促した面は否めない。実際、「大映の看板女優だった彼女も、岸惠子の進出で、ちょっと考え方が変ってきている」(前掲書)という話もあり、『黒い十人の女』は岸が実質的な主役で、山本がそれに続く役だけに、京としては三番手の役に不満があったのではないかという見立ても出来る。

 そもそも『黒い十人の女』は、撮影開始直前まで岸の出演が不透明な状態だった。パリ在住かつ、夫で映画監督のイヴ・シャンピが妻の長期日本滞在を嫌うこともあり、市川も半ば諦めかけていた。しかし、それを聞いた永田社長が大映三大女優+岸惠子の顔合わせとなれば豪華さが増すという心算もあったのだろう。自らパリに国際電話を3回にわたってかけて直談判にあたり、3月4日にようやく出演の了承を取り付けた。もっとも、この段階では岸はパリでジャン・コクトーの舞台『影』に出演中で、4月にならなければ帰国出来ないという。市川が岸の出演にこだわったことで撮影開始が遅れることになり、その結果として若尾の降板を招いたが、こうした事態を京はどう見ていたのか。『おとうと』に次いで『黒い十人の女』でも岸に持って行かれ、撮影のスケジュールも彼女を優先して4月まで延期が決まったとあっては、京が「出たくありませんから」(前掲書)と断ったという説にも一理あるという気がしてくる。

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市川崑執筆の『黒い十人の女』絵コンテ(『成城町271番地』白樺書房)より
 金田一耕助京マチ子

 結局、京マチ子市川崑監督作への出演は『ぼんち』が最後となり、『黒い十人の女』への出演は幻となった。その後も両者が組む機会が訪れることはなかったが、70年代後半から市川が連作した金田一耕助シリーズは、大物女優が出演するのが恒例だっただけに、もしかすると京が出演する可能性があったかもしれないと思うことがある。とはいえ、『犬神家の一族』(1976)で市川は初めて組む高峰三枝子を、続く『悪魔の手毬唄』(1977)では、『黒い十人の女』以来となる岸惠子を選んだところから、最初から京は眼中になかったのかもしれないという気にもなる。

 ここでも、偶然なのか必然なのか市川崑をめぐる京マチ子岸惠子の因縁が再燃することになる。『悪魔の手毬唄』が公開された1977年4月2日は、古谷一行金田一耕助を演じたシリーズの第1作となる『犬神家の一族』の初回が毎日放送・TBS系列で放送された日でもある。この作品で、京は高峰が演じた犬神松子役を演じている。このテレビ版『犬神家〜』は、旧大映京都撮影所のスタッフによって設立された映像京都が制作にあたっており、撮影の森田富士郎、美術の西岡善信らベテラン勢が揃っている上、西岡にいたっては市川崑から金田一耕助シリーズへの参加を打診されたこともある。映像京都のスタッフにとって市川は、大映時代、『木枯し紋次郎』で勝手知ったる間柄だけに、いっそうライバル心を燃やして映画に負けない作品を作ろうとしたようだ。京の出演も、そうした映画以上の豪華さを狙った配役とおぼしい。結果としては視聴率は40%を記録したが、同じ横溝正史の原作で、〈岸恵子VS京マチ子〉の様相を呈したわけだが、京の胸中は如何許だったのだろうか。市川への対抗意識がスタッフだけでなく京にもあったのか、訊いてみたかった気がする。

 最後に『黒い十人の女』へ話を戻すと、京が演じる予定だった役は宮城まり子が愛らしく演じている。生活感がありつつ誰よりも優しく献身的で、それゆえに自責の念に駆られて死を選んで幽霊となって狂言回しを演じる役どころで、宮城の好演が印象深い分、もし、京が演じていても、さぞかし魅力的に快活な女性像を演じてみせてくれただろうと思わずにいられない。

 それだけに、市川崑×京マチ子のコンビが壊れたことが惜しくてならない。 もし、コンビが継続していたら、70年代後半以降は映画から遠ざかった京が、市川の金田一シリーズや、80年代の市川の文芸映画に登場するような"if”があったかもしれない。

 

 

【参考資料】

『崑 市川崑インタビュー』『完本 市川崑の映画たち』(市川崑森遊机 著/洋泉社)『成城町271番地』(市川崑和田夏十 著/白樺書房)『讀賣新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』『週刊新潮』『週刊読売』『週刊明星』『小説倶楽部』『出版ニュース