『私は二歳』 幼児とスタンダード・サイズ


Trailer 私は二歳 (1962)

育児書は映画になるか

 この世に映画にならない題材などない――この傲慢にも思える思想を実践してきたのが、市川崑和田夏十による夫婦コンビである。彼らが監督、脚本を手がけた作品の中でそれを実感したのは、おそらく三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した『炎上』(1958)が最初だろう。当初は、通常の原作ものを映画化するのと同じ手順で小説を読み解き、脚色の切り口が検討された。しかし、相手は三島である。映像を過分に喚起させる美文ゆえに、そのまま映像化すれば絵解きにしかならない。そこで三島の創作ノートを基にすることで突破口を見出した。言わば小説ではなく、〈創作ノート〉を映画化したのだ。

 以降も『鍵』(1959)、『野火』(1959)、『破戒』(1962)などの一筋縄ではいかない文芸作品を鮮やかな手さばきで映像化してみせたが、市川崑和田夏十はそこに安住することなく次なる一手として選んだのが、なんと育児書である。小児科医の松田道雄の著書『私は二歳』『私の赤ちゃん』を原作にしたのが、『私は二歳』(1962)だ。 

 船越英二山本富士子が演じる団地住まいのサラリーマン夫婦の間に生まれた男の子ターちゃん。初めての子育てに一喜一憂する両親を尻目に、ターちゃんは赤ちゃんの視点から大人たちを眺める。まだ喋ることが出来ないターちゃんの心の声を中村メイ子が担当し、シニカルな発言をするのが笑わせる。後に『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967)や『吾輩は猫である』(1975)でも発揮された小さな視点からの人間への批評眼を、赤ちゃんを通じて描いている。

 市川崑は、これまでも自作にとんでもない奇想を大胆に取り込む一方で、『ビルマの竪琴』(1955、1985)を筆頭に、叫ばずにヒューマニズムを静かに訴えかけてきた作家でもあるだけに、赤ん坊を主人公にした映画だからといって、感情過多に陥ることはない。例えば岸田今日子が演じるクールな団地妻が、子どもの転落事故を聞いても顔色一つ変えずに岸田今日子的な無表情を維持していると、助かったと聞いた途端に満面の笑顔になるあたりの感情の配置、渡辺美佐子が赤ちゃんを湯に入れるシーンで汗を極端に強調したりする緩急を弁えた演出が、単に赤ちゃんを可愛がるだけの映画と違う。

 原作の松田道雄は今でも日本の育児百科の古典的存在として知られているが、当時、如何に信頼された存在だったかは、小林信彦のユーモア育児エッセイ『パパは神様じゃない』(晶文社ちくま文庫)を読んでも伝わってくる。

 

 「由紀は、松田道雄先生の本に書いてあるのと、まったく同じ段どりで成長しているわ」

 と妻が言った。

 かかる瞬間、マツダ・ミチオという名前は、あたかもシネマスコープ第一作『聖衣』の立体音響によるキリストの声のごとくに、私の耳にひびくのである。わが家においては、その信用たるや大したものであって、松田氏の赤軍派批判や日共の衆院大量当選にあたっての感想に至るまで、妻は私に伝える。

 

 同書の中では娘の成長に合わせて松田道雄の言葉が幾つも引用され、父親は安堵する。これひとつを取っても、初めての育児に戸惑い、悩む親たちにとって頼れる存在だったかが分かる。

 この時期、市川崑和田夏十の間にも長女が生まれ、二歳になろうとしており、松田道雄の存在は身近に感じていたようだ。そうした育児の経験から本作が企画されたわけだが、「育児だけでは映画として視野が狭い」(『夕刊 讀賣新聞』昭和37年8月8日)と、撮影前から市川崑は本作がワンアイデアに頼った企画ではないと語っている。実際、映画を観れば育児を中心としたホームドラマを通して日常生活と隣り合う生と死をさりげなく描くことに主眼が置かれていることに気づくはずだ。老衰による死だけではない。崖のようにそびえ立つ階段、思わぬ家庭用品からの窒息、建具からの転落――小さな子どもにとって家の中は危険がいっぱいだ。こうした視点から輪廻転生にまで踏み込みつつ、生と死を均等に描くことで、単なる育児書の映画化にとどまらない根源的な人間の営みを見つめる作品になっている。

 

 

二歳児を撮影するための方法

 さて、撮影にあたって問題となるのは、主人公のターちゃん(市川崑和田夏十夫妻の長男の愛称でもある)を本物の2歳児が演じるということである。当初は子役にもあたったようだが、森永ミルクとのタイアップで一般公募されることになった。主役に選ばれれば奨学金として20万円が贈呈されるということもあって、応募総数は3250名に達した。そこから市川崑のイメージに沿って写真審査で60名にまで絞られ、1962年8月8日に銀座ヤマハホールで公開オーデションが行われることになった。審査員は市川崑和田夏十、母親役の山本富士子、撮影監督の小林節雄、大映幹部の松山英夫、国立病院小児科医長の深野秀二らである。

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『週刊平凡』より(ヤマハホール、1962年8月8日)

「あの坊やだけがお母さんと離れても平気で立っていた。顔立ちもしっかりしてるし、よし、この子に決めた」(『市川崑の映画たち』)と、市川崑がターちゃん役に白羽の矢を立てたのは、当時1歳9か月の鈴木博雄君である。「たまに風邪気味になるだけで病気をしたことがない健康優良児。家庭でもめったに泣き顔をみせたことがないタフ・ベビー」(『週刊サンケイ』1962年9月17日号)と、当時の週刊誌でも報じられているが、こうした要素も起用に繋がったのだろう。

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『週刊平凡』より(ヤマハホール、1962年8月8日)

 8月8日にオーデションを終え、8月27日に撮影が開始されたが、撮影現場は危険が多く、雑多な機材がむき出しになっていることもあって、細心の注意が払われた。照明には熱を吸収するフィルターが取り付けられ、看護婦が常駐して健康状態を管理しながら撮影が進められたという。クランクインから2、3日の間は撮影に慣れさせる意味もあって、朝の30分を子どもの撮影に当てていたが、直ぐに慣れたことから1週間もすぎると、午前中に1時間、午後に1時間半というスケジュールで撮られることになった。この子どもパートの撮影では、編集で両親の船越英二山本富士子のカットバックで繋げるために様々な表情や仕草を中心に撮り、自由に動いているところを望遠レンズなどを駆使して切り取っていった。

 もっとも、訓練を受けているわけではない子どもが、喜怒哀楽を監督が命じるままにそう自由に表現できるわけはなく、〈臨時助監督〉が子どもの演技担当となった。それが鈴木博雄君の母親、祖母、叔父らである。彼女たちが交代で撮影に付きっきりとなって、市川崑の指示を受けて坊やを動かすのである。喜んでいる顔が撮りたいとなればお気に入りの玩具を与え、子どもの勘所を心得た判断をその場その場で下すことで、円滑に撮影を進めたわけだ。

 とはいえ、いつもと勝手の違う撮影に市川崑疲労困憊したようで、調布の大映撮影所から成城の自宅までの送迎車の中で珍しく寝入ってしまったという。曰く「普段なら、そのくらいの距離で寝やしないんですが、やっぱり、クタクタになっていたんでしょうね」(『市川崑の映画たち』)。

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『週刊サンケイ』より(大映撮影所にて。鈴木博雄の両隣にいるのが〈臨時助監督〉

 ところで本作は画面サイズが正方形に近いスタンダード・サイズで撮影されている。当時、日本映画の大半は横長のスコープ・サイズへと移行しており、本作を製作した大映大映スコープを導入していた。それゆえに、この時代にスタンダード・サイズで撮られているのは珍しく、本作で撮影を担当した小林節雄も一本立ちした時に数本スタンダードで撮っただけで、以降はスコープしか手がけておらず、本作が久々のスタンダード・サイズ復帰となり戸惑ったという。「クロース・アップを撮った時は、すきまなく安定感のある画面が出来て、これはいいと思った。だが一寸キャメラを引いてみると、もう勝手がぜんぜん違う」(『キネマ旬報』1962年12月上旬号)と、悪戦苦闘の撮影を語っている。本作で敢えてスタンダードサイズが選ばれたのは、光量が少なくて済むために幼児の負担軽減と、望遠レンズの種類が豊富で、遠方から撮影と意識させずに子どもを撮ることが可能という技術的な理由もあった。

 一方で、狭い団地や日本家屋を舞台にしたホームドラマをスタンダード・サイズで撮ることで、TVに接近させる意図もあったのではないか。当時、TVへの対抗から映画界が大型画面に差異を見出す中、市川崑は意図的にTV的な設定と画面の中で映画を撮ることを意図したのではないか。市川崑自身は当時、70ミリ映画も撮ってみたいと語りつつTVでの演出も多く手がけており、安易な〈映画vsテレビ〉には与しない存在でもあった。

 「今まで数多くの映画作家たちが、人生をのぞく窓として歴史的にるいるいとつみ重ねてきたスタンダード・サイズのフレームの実績には、それなりの大きな意義がある。何も固執する必要はないが、素材によっては、まだまだ当然スタンダード・サイズの映画が作られていい」(『キネマ旬報』前出)と本作の製作時に述べたように、市川崑にとって映画とTV、そしてスクリーンサイズの違いとは、画家が描く場所を選び、キャンパスの大きさを自由に選ぶのと同等の意味があったのではないか。企業の映画では、映画作家の意図よりも、興行的な要請によってカラーとなり、シネスコになってしまうのが通例だったが、『私は二歳』は、スクリーンサイズもまた映画作家が決定すべきということを実感させる作品でもある。