京マチ子はなぜ『黒い十人の女』に出演しなかったのか


黒い十人の女 予告篇

 

 映画史には無数の“if”がある。「もし、あの企画が実現していたら……」「もし、あのキャストが実現していたら……」。死んだ子の歳を数えることの虚しさは承知の上で、そうした空想に耽ることも映画の面白さのひとつだろう。その意味で、先ごろ亡くなった京マチ子が出演したかもしれない『黒い十人の女』という“if”を提示してみるのも一興だろう。 

 

市川崑とテレビ

 本作が製作された1961年、市川崑は空飛ぶ鳥も落とすほどの存在だった。『鍵』(1959) 、『野火』(1959)、『ぼんち』(1960)、『おとうと』(1960)と、一筋縄ではいかない文芸映画を華麗なテクニックと見事な語り口で矢継ぎ早に映画化し、いずれも成功させたのだから、次なる動向に注目が集まっていた。

 1960年1月31日の『讀賣新聞』が、ブルーリボン監督賞を受賞した市川崑へインタビューを行っている。受賞作の話もそこそこに、今後の企画に話が移った。市川が挙げた新作構想は、以下のようなものだった。アルベール・カミュ原作の『ペスト』、オペレッタ『ミカド』、オリジナル企画では「人種問題と父と子という血縁関係をからませたもの」があり、そちらは「父もむすこも同じ朝鮮人、しかし父は国籍が朝鮮、むすこは日本。(略)北朝鮮帰還問題などをバックにして、社会悪という人間のはきだす不条理との戦いをえがこうとするもの」だという。また『雨』というタイトルの短篇映画も考えており、「しずかな雨、驟雨、放射能の雨などあらゆる雨をテーマにして天と地の間のハーモニーをみつめる」と語っている。

 残念ながらこのときに語られた4本の企画はいずれも実現することはなかったが、この時期、市川は映画で傑作を連打する一方で、積極的にテレビにもコミットしていた。1959年に『恋人』『冠婚葬祭』『恋飛脚大和往来・封印切りの場』『隣の椅子』、1960年に『足にさわった女』『駐車禁止』、1961年に『檸檬』『破戒』が放送された。いずれも日本テレビの番組だが、映画と平行してテレビドラマの演出を――単発ドラマが多いとは言え――手がけたというのは凄まじい。

 1960年10月28日には、日本テレビが市川を演出顧問として迎えることを発表している。現役映画監督の就任は初である。創世記の日本テレビでは、ドラマの充実を図るために映画監督を積極的に登用していた。マキノ雅弘山本薩夫山村聡井上梅次らが単発ドラマの演出にあたっていたが、最も多くの作品を手がけたのが市川である。この就任劇には実は裏があった。翌月放送される市川演出の『駐車禁止』が芸術祭参加作品となっていたが、局を代表して芸術祭に参加する作品を、外部の監督に丸々作らせることに局内で異論が出た。つまり、例え作品の質が評価されたとしても、日本テレビではなく、市川崑だから評価されたことになりはしないかという意見である。そこで、日本テレビの〈演出顧問〉という地位に付けて内部の人間ということにしておこうという折衷案が生まれたのである。

 あだしごとはさておき、市川はテレビ独自の面白さに魅せられていた。曰く「今の状態じゃ、テレビ・ドラマは映画のあとをおっかけているだけだと思う。それじゃ、いつになってもほんとうのテレビ・ドラマはできない。テレビ・ドラマは音が先で、絵があとからくっついてゆくものだから、映画よりもむしろラジオ・ドラマに近いものだ。だから、演出も映画とは本質的に違ってくるべきだね」(『讀賣新聞』1960年1月31日)

 この時期に手がけたテレビ作品は、『恋人』『足にさわった女』は映画のセルフリメイク、『檸檬』は映画では通らなかった企画をテレビに持ち込んだもの。全9回の連続ドラマ『破戒』は、好評なことから翌年に映画でセリフリメイクされるなど、映画の下にテレビがあるのではなく、両者の特性を活かした上で同じ題材を異なる表現で映像化したり、映画とテレビを行き来する市川のスタイルは、今も鮮やかに映る。

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『私は二歳』 幼児とスタンダード・サイズ


Trailer 私は二歳 (1962)

育児書は映画になるか

 この世に映画にならない題材などない――この傲慢にも思える思想を実践してきたのが、市川崑和田夏十による夫婦コンビである。彼らが監督、脚本を手がけた作品の中でそれを実感したのは、おそらく三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した『炎上』(1958)が最初だろう。当初は、通常の原作ものを映画化するのと同じ手順で小説を読み解き、脚色の切り口が検討された。しかし、相手は三島である。映像を過分に喚起させる美文ゆえに、そのまま映像化すれば絵解きにしかならない。そこで三島の創作ノートを基にすることで突破口を見出した。言わば小説ではなく、〈創作ノート〉を映画化したのだ。

 以降も『鍵』(1959)、『野火』(1959)、『破戒』(1962)などの一筋縄ではいかない文芸作品を鮮やかな手さばきで映像化してみせたが、市川崑和田夏十はそこに安住することなく次なる一手として選んだのが、なんと育児書である。小児科医の松田道雄の著書『私は二歳』『私の赤ちゃん』を原作にしたのが、『私は二歳』(1962)だ。 

 船越英二山本富士子が演じる団地住まいのサラリーマン夫婦の間に生まれた男の子ターちゃん。初めての子育てに一喜一憂する両親を尻目に、ターちゃんは赤ちゃんの視点から大人たちを眺める。まだ喋ることが出来ないターちゃんの心の声を中村メイ子が担当し、シニカルな発言をするのが笑わせる。後に『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967)や『吾輩は猫である』(1975)でも発揮された小さな視点からの人間への批評眼を、赤ちゃんを通じて描いている。

 市川崑は、これまでも自作にとんでもない奇想を大胆に取り込む一方で、『ビルマの竪琴』(1955、1985)を筆頭に、叫ばずにヒューマニズムを静かに訴えかけてきた作家でもあるだけに、赤ん坊を主人公にした映画だからといって、感情過多に陥ることはない。例えば岸田今日子が演じるクールな団地妻が、子どもの転落事故を聞いても顔色一つ変えずに岸田今日子的な無表情を維持していると、助かったと聞いた途端に満面の笑顔になるあたりの感情の配置、渡辺美佐子が赤ちゃんを湯に入れるシーンで汗を極端に強調したりする緩急を弁えた演出が、単に赤ちゃんを可愛がるだけの映画と違う。

 原作の松田道雄は今でも日本の育児百科の古典的存在として知られているが、当時、如何に信頼された存在だったかは、小林信彦のユーモア育児エッセイ『パパは神様じゃない』(晶文社ちくま文庫)を読んでも伝わってくる。

 

 「由紀は、松田道雄先生の本に書いてあるのと、まったく同じ段どりで成長しているわ」

 と妻が言った。

 かかる瞬間、マツダ・ミチオという名前は、あたかもシネマスコープ第一作『聖衣』の立体音響によるキリストの声のごとくに、私の耳にひびくのである。わが家においては、その信用たるや大したものであって、松田氏の赤軍派批判や日共の衆院大量当選にあたっての感想に至るまで、妻は私に伝える。

 

 同書の中では娘の成長に合わせて松田道雄の言葉が幾つも引用され、父親は安堵する。これひとつを取っても、初めての育児に戸惑い、悩む親たちにとって頼れる存在だったかが分かる。

 この時期、市川崑和田夏十の間にも長女が生まれ、二歳になろうとしており、松田道雄の存在は身近に感じていたようだ。そうした育児の経験から本作が企画されたわけだが、「育児だけでは映画として視野が狭い」(『夕刊 讀賣新聞』昭和37年8月8日)と、撮影前から市川崑は本作がワンアイデアに頼った企画ではないと語っている。実際、映画を観れば育児を中心としたホームドラマを通して日常生活と隣り合う生と死をさりげなく描くことに主眼が置かれていることに気づくはずだ。老衰による死だけではない。崖のようにそびえ立つ階段、思わぬ家庭用品からの窒息、建具からの転落――小さな子どもにとって家の中は危険がいっぱいだ。こうした視点から輪廻転生にまで踏み込みつつ、生と死を均等に描くことで、単なる育児書の映画化にとどまらない根源的な人間の営みを見つめる作品になっている。

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『柄本家のゴドー』☆☆☆★★


映画『柄本家のゴドー』予告編

 十数年前のある夜、中央線沿線のミニシアターでピンク映画のオールナイトを観ていた。何本目だったか、場内が暗くなって上映が始まる直前に中年とおぼしき男が隣に座った。おそらく、終電を逃した男がオールナイト上映を見つけて入ってきたのだろう。大きく仰け反って座る姿に、直ぐにでも寝そうな雰囲気が漂っていた。そういう気ままな映画の観方は嫌いではないが、評判のピンク映画をようやく捕まえて観に来た身としては、煩くしないでくれよと祈りつつ、上映が始まった。

 始めは退屈そうに見えた隣の男は突然、身を乗り出して食い入るように画面を凝視し始めたかと思うと、しばらくすると身体を後ろに大きく倒して、寝るんじゃないかと思うほどグッタリしている。そしてまたガバっと起きて前のめりになった。最初は落ち着きのない奴めーーとしか思っていなかったが、やがて劇中の芝居や際立つ演出に反応しているのが分かった。場内が明るくなって、さりげなく隣の男の顔を見ると、柄本明だった。 

 『柄本家のゴドー』は、柄本佑柄本時生の兄弟による演劇ユニット「ET×2」がサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を上演するまでの稽古を記録したものだ。2014年に初演し、「一生つきあっていける戯曲に出会った」と語る柄本兄弟は、2017年の再演にあたって演出に柄本明を迎えた。まさに柄本家の人々によるゴドーである。

 監督が撮影監督の山崎裕だけあって、演劇に拮抗しようとか、小手先の演出でまとめあげようと思っていないところが良い。そもそも最初は作品にしようとも思わず、稽古風景を撮りたいと思ったところから出発しているだけあって、漂うように稽古場でキャメラが回り始める。

 柄本明の演出は観念的な言葉ではなく、「それは(台詞を)早く言ってるだけなんだよ」などとシンプルな言葉を連ねて修正を指示する。そして僅かな言い回し、歩き方に注文を付けて、遂には舞台に飛び上がって実演してみせる。それをじっと観察した息子たちは、その動きを真似、やがて習得していく。

 舞台の稽古を映す場合、演出家の激昂やら、演技者がそれに萎縮する姿がこれ見よがしに撮られがちだが、本作にはそうしたものはない。父は手取り足取り繰り返し説明しながら芝居を構築していくが、相手が息子だからといって特に厳しくするわけでも、手加減するわけでもない。息子たちも、後になると父のダメ出しを恐れたと語るが、画面に映るのはそうした緊張感を楽しんでいるかのように真剣に明の言葉に耳を傾ける姿だ。

 稽古風景が延々と続くだけでは単調になりそうだが、やがて本作は〈柄本明の顔の映画〉であることが分かる。舞台上の柄本兄弟と客席側で演出する父の姿は逆三角形の構図となり、キャメラはこの三角点を遠回しに撮りながら視点を探り、柄本明の顔を発見する。嬉々とした表情で大きな笑い声をあげて舞台を見つめているかと思えば、別日には険しい表情でダメ出しを続ける。刻々と変わり続ける顔はいつまで見ていても飽きることがない。そのクローズアップこそが映画であり、この豊かな表情を引き出させるのが『ゴドーを待ちながら』である。

 十数年前、隣の席でピンク映画を観ていた柄本明は、どんな表情だったのだろうか。

 

4月20日(土)より、ユーロスペースで公開。

『時をかける少女』をめぐる映画監督たち

細田守大林宣彦の奇縁

 今のところ9回にわたって映像化(そのうち映画は4回)されてきた『時をかける少女』だが、最初の映画化となった大林版『時かけ』(83)が与えた影響は絶大である。大きすぎると言っていい。実際、細田守版は、いかに大林版からの呪縛から逃れるかが、ひとつのテーマだった。 

 細田と大林には意外な縁がある。細田がプロのアニメーションの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのが、『少年ケニア』(84)――角川映画が『幻魔大戦』(83)に続いて製作した劇場アニメーションである。監督は大林、主演声優は原田知世高柳良一という前年に大ヒットした『時かけ』の監督・主演コンビだ。

 劇場アニメーションに実写畑の監督が参加すると、往々にして監修的な立ち位置になりがちだが、大林は細部まで自身の意図を反映させたことで、『少年ケニア』は良くも悪くも語り継がれる作品となった。「アニメーションに関するあらゆる実験を試みました。線画だけの表現。色のコマ塗り。アニメの画面に実写の雨が降る。描かれたアニメにオプチカルをかけて、ソラリゼーションを起こさせる。実写の人物がアニメの中を歩く」(『4/9秒の言葉 4/9秒の暗闇+5/9秒の映像=映画』大林宣彦 著/創拓社)と大林が語るように、メジャー映画と実験アニメの融合とも言うべき不可思議な味わいの作品になった。

 常識破りの作品らしく、この作品では、新人アニメーターを一般公募するという企画が立てられた。当時、高校1年生だった細田は、「素人を使うなんて無茶苦茶な企画だと思ったけれど、そういえば大林監督も自主制作から商業映画監督になった人だし、ちょっと変わった面白いフィルムになるだろう」(『キネマ旬報 2006年3月上旬号)と、中学3年の時に8ミリで自主制作したペーパーアニメを応募することにした。すると、さっそく制作にあたっている東映動画(現東映アニメーション)のプロデューサーから、上京して作画の打ち合わせに入りたいと連絡が来る。高1にして細田は、大林映画のアニメスタッフに採用されたわけだ。しかし、テストが迫っていたために都合がつかず、結局、細田の『少年ケニア』デビューは幻に終わってしまう。

 これだけなら、どうということはないが、細田と大林の奇縁には続きがある。金沢美術工芸大学在学中、学祭の実行委員長を務めていた細田は、〈大林宣彦ピアノ・リサイタル〉なる催しを企画する。曰く、「大林さんはご自身でピアノを弾かれたり、作曲されたりするということを知っていたし、『少年ケニア』で大林さんとご縁があると思いこんでた」(前掲)。

 そこで、大林に連絡を取るためにたどった伝手が、高校生の頃に『少年ケニア』で連絡してきた東映動画のプロデューサーだった。ところが、先方は細田がいよいよアニメーションの世界に入るために頼ってきたのだと思い込み、スタジオを紹介しようと申し出る。こうして細田東映動画へ籍を置くことになり、アニメーターとしてのキャリアを歩み始めることになる。大林宣彦と『少年ケニア』が、細田の運命を決定づけたと言っても過言ではあるまい。なお、〈大林宣彦ピアノ・リサイタル〉は細田のアニメ業界入りのため、実現しないまま終わった。

 

大林宣彦角川映画

 大林版『時かけ』は、角川映画と大林映画の時ならぬ結合がもたらした〈個人映画的大衆娯楽映画〉というバケモノ的様相を呈している。それゆえに、細田版は全く異なるアプローチを取ることで秀作となったが、では、どうやって大林版は生まれたのか。その秘密は、角川映画大林宣彦の関係を繙かねばならない。全ての始まりは、大林のこの言葉から始まった。

角川春樹さんよ、あなたが大林宣彦を使える時代がはやくきたらいいでしょうね。」

 1978年末、映画評論家の石上三登志が責任編集を務めた雑誌『季刊映画宝庫 NO.9』(1979年新年号)で行われた石上と大林による対談の席での発言である。後に角川映画を代表する監督として知られるようになる大林が、当時、角川映画を総指揮していた角川春樹に向けて、なぜこんな言葉を発したのか説明が必要だろう。2人には、〈日本映画界〉に登場したのが、ほぼ同時期だったという共通項がある。

 1976年、角川春樹は初プロデュース作『犬神家の一族』で角川映画を誕生させた。映画製作は角川文庫を売るためと言い切り、続けて製作した『人間の証明』『野性の証明』は、莫大な製作費をかけた派手な大作を、TVスポットと主題歌の合わせ技でメディアミックスを展開し、大量宣伝によって映画と文庫を売りつける手法は、旧来の日本映画界から、顰蹙を買うに充分だった。

 一方、1977年に『HOUSE』で商業映画監督としてデビューした大林宣彦もまた、映画人からは白い目で見られていた。個人映画の旗手として1960年代後半にアンダーグラウンド映画で注目を浴び、その後はCMディレクターとしてヒットメーカーになった大林は、商業映画にCMの方法論をそのまま持ちこんだ。古めかしく、退屈な日本映画にうんざりしていた若い世代からは熱狂的に支持されたものの、年長者たちは、映画以前のシロモノと批判した。

 角川映画と大林映画は同時期に日本映画界に参入し、こんなものは映画に非ずと難詰された点で共通するだけに、互いを意識しないはずがなかった。実際、角川春樹は、『HOUSE』を劇場に飛んで行って観たという。初期の角川映画は、大作志向が強かったこともあり、撮影所出身の市川崑佐藤純彌といったベテラン監督たちを起用して、角川映画と〈日本映画界〉の齟齬を埋めざるを得なかったが、本来は大林――そして後に角川映画に参入してくる相米慎二根岸吉太郎といった新世代の監督たちと組むことが、角川春樹の理想とする映画作りに近いはずだった。

 大林と角川春樹の出会いは、1975年に遡る。ATGが製作した横溝正史原作の『本陣殺人事件』に大林は音楽監督角川春樹は企画協力として関わっていた。監督は大林の盟友である高林陽一である。大林は、「この映画がひとつの契機となって角川映画の第一作『犬神家の一族』がスタートするのだが、この横溝正史映画の監督が同じ高林陽一君でなかったことを、ぼくはこの旧友のためにだけでなく無念な気持ちで受け止めた。『新進気鋭の独立映画作家としては、ずい分安定路線の地味な起用だなぁ』というのが当時のぼくの市川崑監督についての素直な感想である。」(『映画芸術』1994年冬号)と、始まったばかりの角川映画への印象を記している。だからこそ大林は、「角川春樹さんよ、あなたが大林宣彦を使える時代がはやくきたらいいでしょうね。」という挑発的な発言をしたのだ。

 

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『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(第2回)たった一本の映画でその名を刻む伝説の映画監督になるには?

唯一無二の作品を撮ってしまった映画監督のその後

 企画開始時に22歳、公開時は25歳だった監督の山賀博之。8mmの自主制作アニメという実績のみで、製作費8億円の劇場用長編アニメーションを監督するという壮大なプロジェクトを終え、興行こそは大きく振るわなかったとはいえ、作品の評価も悪くはなく、この映画のために作られた製作会社GAINAXも存続することになったのだから、25歳の監督がこの先も長く活躍することを誰も信じて疑わなかったはずだが、山賀は映画が公開された翌々月には故郷の新潟に帰ってしまった。

 その後、アニメの脚本は書いているものの監督としての経歴は、TVアニメ『まほろまてぃっく』『アベノ橋魔法☆商店街』を2001年に監督したのみ。映画監督としての第2作は、20年近く前から予告されながら、未だ実現していない。

 

 これからプロのアニメーション監督としてキャリアをスタートさせるにあたり、これ以上ないほど大きな花火を打ち上げた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を撮った後、なぜ新作がないのか。「あまりにも今まで、あくせくと短期間の出世だけを考えて、セコセコと生きて来た自分というものに行き当たるわけです。要するに、僕が監督になることを決意してから『王立』に至るまでの日々ってのいうのは、自分で作ったプログラムを消化するだけの日々だったんですよ。」(『クイック・ジャパン VOL.18』太田出版)と山賀は自己解析するが、大学時代から「25歳までには劇場版の監督かテレビシリーズのチーフディレクターをやらなきゃならないと考えていました。しかし25歳で監督になれる時代じゃないわけですよ。『どうしたらなれるか』、ただそれだけです。そればっかり考えていました。」(『GAINAX INTERVIEWS』堀田純司GAINAX 著/講談社)と言うだけあって、本当に25歳で監督になってしまうと、そこで目的を達成してしまったことになる。しかも、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は、山賀博之の内面世界を隅々まで使い切った作品である。

 

幻の山賀監督第2作『蒼きウル』とは?

 脚本家の新藤兼人は「誰でも1本は傑作シナリオが書ける。それは自分の体験を書くことだ」と言ったが、山賀も、それまでほとんど書いたことがないのに『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の脚本は書けてしまったという。

 映画が完成した後、山賀の映画監督第2作が動き出したのは90年代後半——『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象を起こした後である。『蒼きウル』と題された新企画は『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の50年後を舞台にした戦闘機の空中アクションを盛り込んだ続編的な構造を持つもので、元々は『エヴァ』の前に、庵野が監督するための新企画として山賀が新潟から呼び戻されてプロデューサー兼脚本担当として考えたものだった。既に原画作業まで入っていたが、スポンサーの都合で続行が不可能となり、製作中止となった。『エヴァ』がヒットした後、再始動するにあたって監督は山賀へと交代し、内容も大幅に見直されることになったが、数年ごとに今度こそ始動の報が流れるが進展の様子はない。最近では、2017年6月23日、庵野が設立した製作会社カラーから古巣のガイナックスへの未払金訴訟について、東京地裁立川支部で判決が出た際、ガイナックスが出したコメントの中に、「この六月からは劇場用アニメ大作『蒼きウル 英語題名 Uru in Blue』の制作を開始致しました。」とあり、何度目かの再始動が宣言された。

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『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(第1回) なぜ24歳の若者が劇場アニメーションの監督になることができたのか?

24歳の若者が製作費8億円の劇場用アニメの監督に

 映画監督になる相応しい年齢はあるだろうか? 日本を例にとれば、映画黄金期の1950年代前後は、撮影所の時代である。大手映画会社の撮影所で助監督として数年間実績を積み重ねて、監督になる。年功序列なので、よほど突出した才能がないかぎり、早くても30代でようやく監督になることができる。もっとも、こんなものはシステム上の都合にすぎない。松竹大船撮影所の助監督だった大島渚は、助監督なんて3年やれば充分だと、脚本や映画批評などで頭角を現し、27歳で監督に抜擢されている。戦前の映画黎明期に活躍した日本映画史に名を残す監督たちがデビューした年齢を見ると、山中貞雄(23歳)、溝口健二(24歳)、小津安二郎(23歳)、マキノ雅弘(18歳)と若い。海外に目を向けてもスティーブン・スピルバーグ(28歳)、ジェームズ・キャメロン(27歳)、クリストファー・ノーラン(28歳)と、20代後半で商業映画の監督になることは珍しくない。

 『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を監督した山賀博之が製作開始段階で24歳だったのは、映画史を見渡せば若すぎるわけではない。しかし、製作費8億円の劇場用アニメーションを監督実績のない若者に託すのは、今でも大胆な試みである。なぜ、こんなことが可能だったのか。

 

自主制作アニメの頂点『DAICON Ⅳ』

 『君の名は。』(16年)を監督した新海誠は、デビュー作『ほしのこえ』(02年)で監督、脚本のみならず、作画、美術、編集、果ては主人公の声まで(後に声優版も製作)1人でやってのけ、デジタル時代の新たな映画作りの可能性を提示した。とはいえ、これ以降、商業枠での長編アニメーションを製作するようになると、1人で全てを担うことは当然難しくなり、作画監督を招くなど通常のアニメーション製作と同じ方法が取られるようになった。『君の名は。』ではジブリ出身のアニメーター・安藤雅司がキャラクター・デザイン、作画監督を担当しており、他にも同じくジブリ出身の作画担当・廣田俊輔、Production I.G黄瀬和哉など錚々たるアニメーターを集めており、次回作でもこれだけのメンバーを集められるかどうかという声も出ている。ことほどさように、劇場用長編アニメの場合は、監督が優れた能力を持ち、魅力的なストーリーを書いたところで、それを描くアニメーター、美術監督などスタッフを揃えられるかどうかにかかっている。

 その点で山賀博之は、『ほしのこえ』に当たる自主映画の実績と、優秀なアニメーターたちを既に抱えていた。大阪芸術大学映像計画学科の同級生だった庵野秀明赤井孝美は在学中から突出した才能を見せていたが、岡田斗司夫らから依頼されて製作したSF大会のオープニングアニメ『DAICON Ⅲ』(81年)が話題を呼び、これをきっかけテレビの『超時空要塞マクロス』に庵野と山賀が参加するなど、プロの世界に足を踏み入れる原点となった。そこで得たノウハウは『DAICON Ⅳ』(83年)へと投入され、前作を遥かに上回るクオリティの、まさに玄人はだしの短編アニメを完成させた。

 そして、この次がもう『王立宇宙軍 オネアミスの翼』である。8mmの自主アニメから35mmの商業アニメへの進出は、どのように成されたのか。何の苦労もなく才能を見込まれて作ってしまったように見えるが、実際は根回しと慎重な足取りによってたどり着いたものだった。

 

マチュアからプロへの道のり

 究極の自主制作アニメ『DAICON Ⅳ』完成させてしまうと、アマチュアでやるべきことはなくなってしまう。同時にモラトリアム期間も終わりを告げ、それぞれ就職などを考え出す。庵野は『風の谷のナウシカ』(84年)の原画スタッフとして宮﨑駿のもとへ向かったが、山賀はこれまで自主制作でアニメ、特撮ものを製作してきたDAICON FILMの次なる展開として、オリジナル・ビデオアニメ(OVA)の製作を提案した。それがガンダムのプラモデルにしか登場しないキャラクターを主人公にした番外編だった。テレビ版の本家ガンダムとは別にオリジナルのアナザーストーリーを作ることができるという、当時としては画期的な企画だったが、バンダイビジュアルに持ち込んだものの、この企画は流れてしまう。

 この時、企画を相談されたバンダイビジュアルの渡辺繁の証言では、「モビルスーツバリエーション」というプラモデルシリーズを前に「『このシリーズのプロモーションアニメを、DAICON FILMというアマチュア集団につくらせてみないか』という企画を、岡田(斗司夫)さんは提案したんです。(…)監督としてはDAICON4のオープニングアニメを担当した山賀博之という男がいる、『風の谷のナウシカ』で原画をやった庵野秀明という男がいる」(『GAINAX INTERVIEWS』堀田純司GAINAX 著/講談社)と売り込まれたという。『DAICON Ⅳ』の監督と、巨神兵を描いた庵野という2枚看板でプッシュされたわけだ。

 ここで渡辺との関係ができたことから、以降も企画が持ち込まれるようになるが、時あたかも世界初のOVA『ダロス』(83年)がバンダイから発売され、映画、テレビ以外のアニメの可能性が生まれていた。また1984年は、アニメーション史上における重要作『風の谷のナウシカ』、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84年)、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(84年)が公開されたことも、企画を後押しした。

 こうして『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(当初は『王立宇宙軍 リイクニの翼』として始動)は、バンダイが映像事業への参入を考えていたこともあり、製作費4千万円のOVAとして動き始める。そしてDAICON FILMを発展的に解消し、新たにアニメーション製作のための新会社として設立されたのがGAINAXである。

 

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『映画評論・入門!』番外編「映画評論事件史 淀川長治差別発言事件」

淀川長治差別発言事件

 

映画評論・入門! (映画秘宝セレクション)

映画評論・入門! (映画秘宝セレクション)

 

 

 5月9日に発売となる拙著『映画評論・入門!』(洋泉社・刊)は、映画評論家の発言によってスキャンダルが起きたり、映画評論を読んだことで読者が犯罪に手を染めるといった〈映画評論事件史〉的な一面からも、映画評論とは何かを感じられるような本にしたつもりなので、映画評論なんて興味ないという方にも手にとっていただければと思う。詳しくは読んでもらうとして、刊行に合わせて、本には入り切らなかった事件を書いておきたい。

 ここで取り上げる「淀川長治差別発言事件」は、ウィキペディアにも載っている有名な話だが、概要だけならネットでも分かる。しかし、その先に、〈映画評論〉の視点から見れば、もっと重要な事実が隠れている。この事件によって1本の映画評論を淀川が書かざるを得なくなった事情は、ネットや既存の本でも明らかにされているが、その映画評論に何が書かれているかまでは言及されてこなかった。差別発言のみが注目されてきたこの事件でスルーされた〈映画評論〉を軸に事件の全貌を見ていきたい。

 

 映画評論家・淀川長治は、ヨドガワ語とも言うべき独特の言葉を持っていた。『日曜洋画劇場』の解説でもよく口にした「見事な見事な」「怖い怖い」などの関西弁ではおなじみの同じフレーズを重ねることによる強調や、独自の濁音(黒澤明がクロザワ・アキラになる)など、「何ともしれん」妙に耳に残る語感を駆使することで、映画の話に引きこんでしまう。

 そんな淀川が映画に次いで好んだのが風呂である。アーノルド・シュワルツェネッガーにインタビューした際にも、一緒にお風呂へ入りましょうといったニュアンスの発言をしていたが、実際に海外の巨匠監督と風呂に入って親交を深めたことがあったように、いわば親愛の情を表す言葉として、この言葉は活用された。晩年は、こうした独特のヨドガワ語も一般的になっていたが、44年前、この無邪気な発言が問題のきっかけになった。

 1973年9月4日、『サンケイ新聞』夕刊の「こんにちは」というインタビュー欄に淀川が登場した。それ自体は珍しいものではない。生前の淀川は、折にふれて新聞、雑誌で幼い時からの映画人生を語ることが多かったからだ。

 「映画鑑賞が“生命活動”そのもの/ご馳走」という見出しが縱橫にレイアウトされたこの記事は、兼子昭一郎という記者によってルポ風にインタビューがまとめられている。つまり、インタビュアーの地の文に加えて淀川の発言が「……」で構成されたスタイルである。この形式では、インタビュアーの雑感が記事の印象を大きく左右する。

 本文を一部引用してみると、「気違いや虫には悲壮感が伴うものである。一つの職業に全身全霊を打ち込むからに違いない。(略)ところが淀川さんには、その悲壮感がない。こんなに仕事を楽しむ人も珍しい。」という文章なのだが、これだけでも、良くも悪くもこの記者の個性が反映されている記事になっていることは分かるだろう。

 淀川が語った内容は、幼い頃から映画を観てきたという、これまでもよく語られてきたものだが、問題になったのは次の件だ。

  彼の体質は、映画の体質と一致する。

「映画のどこがいいって、あの庶民性が一番ですねえ。ソバ屋も大学の先生も同じように泣いたり笑ったりするんですからねえ。庶民性がわたしにぴったりなのねえ。はい、芸術性の高い映画はあまり好きになれませんよお」

 こどものころ、家の近くに貧乏人の部落があった。学校の行き帰りの途中に位置していた。両親はそこを通らずにすむように、電車の定期を買って与えたが、一度もそれを使わなかった。それだけではない。その特殊な部落にある銭湯に入ったこともあった。

「そのときわたし、この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのねえ。エリートってだめですねえ」

 

夕刊『サンケイ新聞』(昭和48年9月4日)

  この後は、映画の仕事に就く話へ移るだけに、いっそう引用部分が目立つが、明らかに被差別部落を指した内容かつ、該当地区の銭湯に入ったことが特筆すべきことのように書かれているのは、通常の感覚で読めば明らかに差別的な記事だろう。

 もっとも、淀川の発言部分だけを取り出せば、自分の親には差別意識があったものの自分にはなく、一緒に銭湯に入ることも平気だったという発言に取れる。「貧しい人たちと液体で結ばれた」はギョッとするような表現だが、淀川にとって一緒に風呂に入ることは、あらゆる民族を越えて結びつく最良の手段という前提を知っていれば、他意がないことは分かる。

 この記事が出てから1か月が過ぎた1973年11月5日、部落解放同盟の中央機関紙である『解放新聞』が、「サンケイ新聞 あいつぐ差別」というタイトル記事を掲載した。「淀川氏(映画評論)が対談で部落の錢湯にはいったと」という見出しを添え、前掲『サンケイ』の記事を引用した上で、次の様に指摘した。

 これは両親の部落民に対する差別行為をそのまま肯定する差別発言である。さらに淀川氏が部落のフロに入ったことをことさらに書き立てることによって、無意識のうちに自分がすぐれた立場にあること、つまり部落民を差別していることをバクロしている。「部落民といっしょに食事した」といって、部落民を差別していないことを証明しようとして、ぎゃくに差別性を示すのと同じく、淀川氏のこの発言は部落差別そのものである。

 

『解放新聞』(1973年11月5日)

  そして、記事の文末には、これ以外でもサンケイ新聞が差別発言を多く掲載していることを踏まえ、「一〇月三日、大阪府連人権対策部はサンケイ新聞社に対してつよく抗議、一一月八日に糾弾集会をもつことをきめた。」と記されている。糾弾集会とは、部落解放同盟が差別事件と認識した事案について、差別発言を行なった者や関係者を呼び、事実関係を確認し、問題認識を糺すものである。

 11月8日に開かれた第1回の糾弾会に淀川の姿はなかった。サンケイ新聞側が淀川に連絡しなかったからだが、これが問題視され、12月14日に大阪市東区の府農林会館で開かれた第2回の糾弾会には淀川も出席した。会場には、府連各支部から約100人、『サンケイ』側の顔ぶれは、淀川の他に大阪の編集局長、東京・大阪両本社の編集局幹部らである。

 以下、『解放新聞』(1973年12月31日)の記事をもとに当日の様子を追ってみると、前回の欠席について淀川は「サンケイからなんの連絡もなかったので、出席のしようがなかった」と釈明した。そして差別発言について、「私は神戸出身で、差別の問題はよくわかっているつもりだった」「だから私は、あの発言は善意のつもりだったが、十五分間の対談を数十行にまとめたので真意が充分に伝わらなかった」と反省の弁を述べている。

 『解放新聞』では、これらの発言を「差別性をごまかそうとする発言がつづいた。」としている。次に、淀川が自らの言動について考えを述べた。「私は、人間はみんな平等だと常々から考え行動してきた」。

 この発言に対し、府連側は「ヒューマニズムの観点から部落問題をみるから、こんどのような同情、融和の思想がでてくるのだ。あなたのヒューマニズムは単なる“あわれみ”だけであって、なぜ、差別があるのかを根本から追求していない。まさにエセ・ヒューマニズムだ」と糾弾した。

 なお、この記事には「エセ ヒューマニズム追求/淀川氏自己批判サンケイ新聞社差別発言で」という見出しがつけられている。

 最後に次の糾弾会で「①この差別事件の分析と責任と今後の決意を表明せよ②『狭山の黒い雨』を部落問題の観点から批評せよ③これまでの一連の差別評論を明らかにし、分析せよ」との要求が出され、淀川も同意した。

 『狭山の黒い雨』(73年)とは部落解放同盟が製作した劇映画で、1963年に埼玉県狭山市で起きた女子高生への強盗強姦殺人事件——いわゆる狭山事件の映画化である。被差別部落出身の男が犯人として捕らえられ、一審では罪を認めて死刑判決となったものの、その後冤罪を主張して無期懲役が確定した。この映画が製作された当時は一審判決後の控訴期間中である。

 そして、1974年3月4日付の『解放新聞』には、同意通り、淀川による『狭山の黒い雨』批評が掲載されている。「これはただの映画ではない。云わねばならぬ人間の生活の差別の大きな問題を提示した作品である。」から始まる評は、〈部落問題の観点から批評せよ〉という要求に沿って、「犯人を勝手に作りあげるという許るされぬ不正への怒りの奥にもっと重大な問題が暗黒の形で横たわったショック」「この地区なら罠にかかった男にも世間は文句は云うまいというその底知れぬ残酷非道」「この地区のものさえが無力に近い弱さで作られた犯人を見送ってしまったその痛ましさ弱さがあふれていた」「映画が終わったが実は映画が終ったのではないことを観客はこのあと身をしみて感じるにちがいない。現に青春を失って十年、石川一雄氏はまず無実の身で捕われているその事実。」など、被害者と差別される側からの視点に寄り添って記されている。 

 映画としてはどうなのかという点にも触れている。「この映画はこのいまわしい瞬間を記録映画的なタッチで見せた。劇的に押しつけなかった。この演出この脚色が巧い。いわゆる『大人の目』でじっくりと見つめさす映画のたたづまいを持った。」「映画は常に第三者の冷静な目を意識して、この悲しい事実を、劇的には化粧していない。」「叫ばず劇的に泣かせず、新人須藤久監督のこの力作は、映画がここに生きてその怒りをこめたその一念を静かに語り描いたことで立派であった」。

 この批評の掲載をもって、淀川長治の差別発言事件は収束し、狭山事件も1974年10月に東京高等裁判所で被告に無期懲役判決が出ている。

 一方、後にこうした糾弾への批判も出てきた。『差別用語』(汐文社)では、「ここまでくると、淀川氏の知名度を計算に入れ、弱みにつけ込んだ“おどし”といわれてもしかたがない」と記され、『表現の自由と部落問題』(成沢栄寿 編著/部落問題研究所)でも「七十年余り前、全国水平社設立前に部落差別を不合理だと見た少年の心は一顧だにされず、エセ・ヒューマニズムだと追求され、『解同』理論に立つ自己批判を迫られるとともに、『解同』制作映画を批評することを約束させられた。(略)この高名な映画評論家の個性を無視し、自分たちの理論・思想に追随・同調を求めたのである。」と批判した。

 この問題の根本には、インタビューをまとめた記者の責任が大きいはずで、その記者の差別意識の方が深刻だと感じさせるだけに、淀川の責任だけがクローズアップされるのは酷だろう。ましてや『狭山の黒い雨』を批評の方向性も指定して書くように迫るのは、本質から外れている。しかし、淀川の知名度を利用したとばかりも言えない。もし、本当にそうなら、『サンケイ』なり大手のメディアで『狭山の黒い雨』を取り上げることを求めても、淀川ほどの映画評論家なら出来たはずだ。この批評は、単行本にも収録されておらず、淀川自身この事件のことには終生、触れることはなかった。

 それでも、晩年の淀川長治には〈ヒューマニズム〉を感じる瞬間が何度かあった。『シンドラーのリスト』(93年)について、「いいとこだけを見せてるの。例えば、シンドラーがこの戦争でどれだけ儲けたか。それから、ほかにもユダヤ人はたくさんいたのに、自分の工場で働く人だけ助け出す、そういうのが僕は耐えられない。」(『おしゃべりな映画館③』淀川長治・杉浦孝昭 著/マドラ出版)と発言した時など、シンドラーは現実的に自分が出来る範囲のことをやったのだから、それでいいじゃないかと思っていた筆者など、ずいぶん厳しい発言に思えたが、淀川長治にとってのヒューマニズムを示す瞬間でもあった。これは〈エセ・ヒューマニズム〉だろうか。

 『狭山の黒い雨』は現在では観る機会も限られており、筆者自身も未見なので、淀川の批評を読んで、いっそう観たいと思うようになった。映画自体にも興味はあるのだが、淀川がこの作品を、映画は映画として批評を書いたのか、それとも、指示されるままに書いたのか、映画を観ない限り判断がつかないからだ。

 しかし、かつて淀川の新聞での発言に抗議があり、糾弾の結果、淀川が批評を書かされたということのみが、この出来事をまとめた書籍や、それをもとにしたインターネット上のテキストでは流布している。差別事件の一例として見れば事実関係に間違いはないが、〈映画と批評〉という視点では、『狭山の黒い雨』を観て淀川長治による批評を読むという最も基本的な2つの機会が失われたままでいることは残念でならない。

 

【参考】

■映画評『狭山の黒い雨』

胸を突く描き方              

映画評論家 淀川長治

 

 これはただの映画ではない。云わねばならぬ人間の生活の差別の大きな問題を提示した作品である。

 犯人を勝手に作りあげるという許るされぬ不正への怒りの奥にもっと重大な問題が暗黒の形で横たわったショック。

 警察が犯人を捕うべくして逃したその手落ちにうろたえたあまり、これを埋めることのための犯人のでっち上げ。この映画はこのいまわしい瞬間を記録映画的なタッチで見せた。劇的に押しつけなかった。この演出この脚色が巧い。いわゆる「大人の目」でじっくりと見つめさす映画のたたづまいを持った。

 急所は犯人を作り上げるための罠とその網の張り場所である。この地区なら罠にかかった男にも世間は文句は云うまいというその底知れぬ残酷非道が、この映画ではあるがままの一瞬の記録映画感覚で描かれてゆく。それゆえにこそ胸を突く。

 映画は常に第三者の冷静な目を意識して、この悲しい事実を、劇的には化粧していない。脚色の見どころはこの作られた犯人に世間が無関心であったことと、この地区のものさえが無力に近い弱さで作られた犯人を見送ってしまったその痛ましさ弱さがあふれていたこと。それも実はこの映画を見終わったあとでそれがはねかえってくる描き方。

 しかしその伏せられた怒りが、やがて田中春男扮するこの地区の中年男の一見ボソリとした顔つきの中に疑問がついにこみ上げてこの地区のある場所で訴える。初めは彼も黙していた、それがたまりかねて怒りとなってきたときの、この中年男のその目のきびしさ。ここをその目のきびしさで見せた演出が効く。

 忘れにも罠にかかった青年。これを演じた桜井弘史はそのマスクの繊細さが気になったが彼の力演がその心配を吹き消して、人の良すぎる善良の哀れが、しかも喜劇的な皮肉さを見せてあふれ出た。その人の良さを巧みに利用する最も悪質な罠。しかもその調べ室でお茶が出る、するとそれだけで安心感抱いて調子づいてくるこの青年、ただ一杯のお茶で。ここにこの青年の長い間のいまわしい差別の中での育ちが感覚的に描かれて、画面のおかしさが怒りとなって盛り上る。

 映画が終わったが実は映画が終ったのではないことを観客はこのあと身をしみて感じるにちがいない。現に青春を失って十年、石川一雄氏はまず無実の身で捕われているその事実。叫ばず劇的に泣かせず、新人須藤久監督のこの力作は、映画がここに生きてその怒りをこめたその一念を静かに語り描いたことで立派であった。

 

『解放新聞』(1974年3月4日)

 

『シン・ゴジラ』を読み解く前に―庵野秀明旧作より

 

 

『GAMERA1999』

 『ガメラ3 邪神覚醒』(99)公開前にビデオ発売されたメイキングだが、総監督の庵野秀明はこの時期、次なる展開としてドキュメンタリーか特撮を手掛けると目されており、その前哨戦としても注目を集めた。『ゆきゆきて、神軍』(87)、『由美香』(97)などのドキュメンタリーに刺激された庵野は、『ラブ&ポップ』(98)のフェイクドキュメンタリー構想が頓挫した後も、カンパニー松尾平野勝之らAV監督たちと親交を重ね、撮影にも参加。本作冒頭の飲み会シーンを松尾が撮影し、庵野、平野、林由美香らが顔を揃えているのも、その縁である。

 「ドキュメントものでお客さんが欲しがるものは、脚色されたイリュージョンと赤裸々なスキャンダル(笑)」(『ロマンアルバムアニメージュスペシャル/GaZo画像Vo.2』)と庵野は製作時に語ったが、AVドキュメンタリーの様な被写体の内面をさらけ出す作品を志向していたことが窺える。では、この作品の〈イリュージョン〉とは何か?もちろん、家庭用デジタルビデオカメラの機動力を活かして撮影された特撮現場だろう。ミニチュア、爆破をはじめ、樋口真嗣特技監督とスタッフの仕事ぶりが超至近距離で捉えられている。一方、〈スキャンダル〉は撮影現場でそう大きな事件や対立が起きないので撮れない。結果として「事実を基に構成されていますが、諸般の事情により、22%程捏造して有ります。」という断り書きを入れて、庵野側の主観に加えて恣意的な編集を施すことで、スキャンダルを〈捏造〉した。このことが賛否を集めたが、それもまた計算のうちだろう(それとは別に脚本家・監督・特技監督のチームワークが前2作に比べてズレが生じていたことが今では公言されている)。

 当初の庵野の意図は「日本特撮というものを総括」「なんでまだしがみついているのかっていうのを赤裸々に描こう」(『マジック・ランチャー』庵野秀明岩井俊二 著/デジタルハリウッド出版局)というものだったが、本作のために撮影されながら未使用に終わった川崎郷太、岩井俊二との対談で庵野が語るゴジラが興味深いので幾つか引用しておこう。「日本でゴジラを作っている人って(略)初代『ゴジラ』の呪縛から逃れてない」「大砲を撃っても死なない神様みたいな存在」「怖く感じないのは、生き物として何か食べてる感じがしないところ」「結局、こういう巨大な怪獣がいたらどうなるのかというシュミレーションにしかならない」等々(『GaZo画像Vo.2』)。そして本作のラストにはこんな字幕が出る。「だが、虚構と現実、そして夢は、続く。」――17年後、『GAMERA1999』で検証した夢の続きの具体化が「現実対虚構。」という惹句と共に姿を現した『シン・ゴジラ』である。

 

新世紀エヴァンゲリオン

 言わずと知れた1995年10月〜96年3月に放送されたTVアニメであり、後に社会現象にまで広がった庵野秀明の代表作。『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』に続く90年代を代表するアニメとなり、現在まで新たな劇場版が製作されているが、近未来を舞台に14歳の少年が人型兵器エヴァンゲリオンに乗って使徒と戦う物語は、庵野のSF・アニメ・特撮などの映像的記憶と嗜好が全て投入されている。それゆえに『シン・ゴジラ』を観た最初の印象は、まさに〈実写エヴァ〉だった。具体的に比較すると、冒頭の羽田沖で水蒸気が噴出して巨大生物の一部が出現するのは『第八話/アスカ来日』の水中から登場する使徒ガギエルを思わせるが、それに続く首相官邸地下の危機管理対策室から各大臣が大会議室へ集まる慌ただしい動きは、使徒出現を前にした特務機関NERV本部のようだ。この席で巨大生物に対して「捕獲か駆除か」が協議され、駆除が決定する。巨大生物は多摩川から呑川へと侵入するが、大臣たちは「自重で上陸はありえない」と楽観視する中、蒲田に上陸。建物家屋を次々に乗り越えて倒壊させながら巨大生物は直進する。一見、怪獣映画ではおなじみの出現→上陸というパターンだが、使徒侵攻を実写化したような緊迫感とスケールは、従来の怪獣映画とは一線を画す。

 『エヴァ』は、その後の怪獣映画にも影響を与えた――といったところで、樋口真嗣エヴァで脚本・絵コンテなどに参加しつつ、平成ガメラシリーズで特技監督を務めていたのだから、似てくるのは当然である。『ガメラ2 レギオン襲来』(96)の足利決戦の構図、戦闘の描写などはまさに使徒エヴァのそれだったし、『ガメラ3 邪神覚醒』(99)では、イリスの造形ばかりか、綾波レイ風の名を持つ綾奈や、山崎千里がレイに酷似した雰囲気と髪型で登場したり、ラストに至っては『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(97)と酷似。ガメラに限らず、当時は作り手側がエヴァに侵食され気味だったが、その影響はゴジラにも及んでいる。『ゴジラ×メカゴジラ』(02)は初代ゴジラの骨格をもとにした対ゴジラ用兵器・機龍をヒロインが操縦するという、メカゴジラエヴァを思わせる設定である。暴走による事故、関東一円の電力を機龍に集めて戦うという『第六話/決戦、第3新東京市』のヤシマ作戦そのままの描写もあり、エヴァ風の怪獣映画は『パシフィック・リム』(13)も含め、既に出尽くしたと言ってもいい。

 その意味で『シン・ゴジラ』が、巨大生物の東京襲来をリアルに描き、政府の混迷と、戦闘に備える防衛庁の幕僚たちのやり取りを緻密に描くことに徹したのは正しい選択だろう。『ゴジラ×メカゴジラ』などが表面的にマネをするだけでは再現しきれなかった「エヴァ初号機、活動を停止」「目標は、完全に沈黙しました」「作戦開始時刻は明朝午前零時。以後、本作戦をヤシマ作戦と呼称します」「現時刻をもって作戦を終了します。第一種警戒態勢へ移行」といった堂に入った用語をゴジラでも次々と小気味良く繰り出すことができるのは庵野しかいない。もちろん、緊迫感のあるシーンばかりではなく、特米大使として来日するカヨコ・アン・パタースン石原さとみ)に惣流・アスカ・ラングレー葛城ミサトっぽさが出ていたり、『第四話/雨、逃げ出した後』の駅前でのミサトとシンジを思わせるやり取りが、石原と長谷川博己によってモノレールの駅前で演じられるあたりはニヤリとさせられる。

 何故、子どもがロボットに乗って戦わねばならないのかというロボットアニメの根源に挑んだように、ゴジラから失われて久しい恐怖と生物感を取り戻すことに挑んだのが『シン・ゴジラ』である。「ゴジラ、まさに神の化身ね」という劇中の台詞からも、ゴジラとは何か?その畏怖、恐怖をいかに取り戻すか、そのために何を描くべきかの一つの答えが出されている。

 

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『ロッパの水戸黄門』と『古川ロッパ昭和日記』(1)

『ロッパの水戸黄門』の発見

 このところ、古川ロッパを目にする機会が多い。去年出た『哀しすぎるぞ、ロッパ 古川緑波日記と消えた昭和』(山本一生・講談社)という評伝に始まり、今年に入ってから『ロッパ食談 完全版』『ロッパ随筆 苦笑風呂』(河出文庫)が新たに書店に並ぶようになったのは、なんとも奇特というべきか。はたして今、古川ロッパが説明なしに受け入れられるのか、と思っていたら、特集本『古川ロッパ 食べた、書いた、笑わせた! 昭和を日記にした喜劇王』(河出書房新社)が出た。

 先日もCSの衛星劇場で未見だった『新馬鹿時代 前篇』が放送されたので、つい見入ってしまった。警官(ロッパ)と闇屋(エノケン)の追っかけが延々続く昭和22年に東宝が製作した前後篇の大作である。驚いたのは、砧の東宝撮影所に作られた高架の上を電車までが走る巨大な闇市のセットだ。これを見たいがために、この映画が長らく気になっていた。というのも、〈せっかくこんな巨大なセットを組んだのだからモッタイナイ、若い奴がついでにもう1本何か考えろ〉というわけで、若手監督の黒澤明が、新人三船敏郎と組んで、このセットを再利用して撮られたのが『酔いどれ天使』なのである。

 映画とは皮肉なもので、セットを流用した『酔いどれ天使』は今でも名画座Blu-rayで観ることができるが、『新馬鹿時代』は高価なビデオが通販で一時期発売されただけで、先日のCSの放送がTV初放送だという。映画史的にもエノケンとロッパの共演作という以上の評価は見られず、小林信彦も「〈追っかけ〉の必然性はあるものの、気分的にリアルすぎて、私は前篇だけで投げた。」(『キネマ旬報 1974年7月上旬号 架空シネマテーク・黒澤だけしか頭になかった』)と、にべもない。

 後世に残らなかった映画について調べるには、当時の新聞、雑誌記事にあたるところから始まるが、古川ロッパの出演作となると、まずは『古川ロッパ昭和日記』(晶文社)を読むところから始まる。これは80年代後半に出版され、2007年には新装版として再発売された戦前篇・戦中篇・戦後篇・晩年篇からなる古川ロッパの人生が凝縮された日記である。『新馬鹿時代』について日記の戦後篇を開けば、昭和22年6月26日にクランクイン、8月23日にアップしたことがたちまち分かり、前後篇になった過程、撮影中のエピソードなどが細かく記されており、第一級の映画資料として活用できる。

 そのことを改めて感じたのは、2月26日に早稲田演劇博物館の主催で行われた「『ロッパの水戸黄門』とテレビドラマの黎明」という催しで『ロッパの水戸黄門』(1960-61)を観たからである。ロッパ最晩年の主演テレビドラマシリーズで、2011年にフィルムが発見された。

 発見にあたった大阪芸術大学映像学科教授の太田米男氏の説明によると、2011年、本作を製作した新星映画(山本薩夫深作欣二らの作品を作った同名会社とは別組織)の元社長(故人)の京都の自宅の押入れに16mmフィルムが所蔵されており、遺族より連絡を受けて調査にあたったところ、『ロッパの水戸黄門』全話の原盤(ネガ)と上映プリントと判明。既に酸化が始まって悪臭を放っており、原盤は保存状態が悪く、上映プリントは良好な状態だったという。

 次に本作を放送した毎日放送(関西のみの放送だったようだ)の権利部に連絡を取ったところ、1960年11月4日〜1961年1月21日にかけて13話が放送されたことを確認(ロッパの死は61年1月16日)。外部製作の買い取りということもあり、著作権毎日放送ではなく、新星映画に有ることが判明したことから権利を相続した遺族側が動き始め、太田氏は身を引いたという。毎日放送は上映プリントをSDテレシネ(=標準画質)した後、フィルムを遺族に返却してきたので、再び太田氏が連絡を受け、寄贈の仲介の労を取り、2014年2月に早稲田演劇博物館に本作の共同復元を提案。

 なぜフィルムセンターではなく演博なのかといえば、フィルムセンターではテレビ作品は低く見られる可能性があり、演博なら保存と見る機会が両立するだろうという判断があったようだ。そして同年10月「美術館・歴史博物館重点分野推進支援事業」に内定を得て、IMAGICAウェストに上映プリントのHDテレシネ(=高精細画質)を発注(劣化の著しい4・5・8話はSDテレシネ)し、明けて2015年1月に全13回分のHDCAM/DVDが納品され、今後、演博で各話が上映される予定だという。

 さて、こうした説明を受けて、いよいよ『ロッパの水戸黄門』が上映されることになった。

(この稿続く)

『愛の渦』☆☆☆★

監督/三浦大輔  脚本/三浦大輔  出演/池松壮亮 門脇麦

2014年 日本 ビスタ DCP 123分

 演劇空間を映画空間に置き換えるために

 劇団ポツドールを主催する三浦大輔の第50回岸田國士戯曲賞受賞作『愛の渦』は、ネットを見てマンションの一室に集まった年も境遇も違う男女8人が深夜0時から朝の5時まで乱交パーティが繰り広げられるという内容で、これまで2度上演されている。

  大根仁が映画監督デビュー作に本作を熱望し、実際に三浦と映画用の脚本執筆に入っていたものの、『モテキ』以前で映画実績が無いために頓挫したこともあったようだが(昨年、同じく三浦の『恋の渦』を映画化)、今回は三浦の手で映画化されている。大根版と、どれほどの違いがあるのかは不明だが、舞台版を観ていないので戯曲を読んでみると、かなり忠実に映画化されていることが分かる。設定、展開、登場するキャラクターもそのままと言って良い。最も大きな変更は、群像劇だったものを映画は池松壮亮門脇麦の2人を主役としてクローズアップしたことである。舞台版はマンションの一室のみで展開するが、映画は池松がATMからなけなしの金を卸すところから始まり、朝になって全てが終わって外に出てからも、もう一波乱待っている。映画のための付け足し部分が蛇足になっておらず、実にバランスよく配置されているのは三浦が監督したからだろう。

  パニック映画に見られるような極限状態で人間が剥き出しになる瞬間を映画は好んで描くが、もはや空も海も高層ビルも使い果たしたかのように思える。しかし、それは人間の生理が排除された、いわばキレイ事の極限状態だ。『狂った野獣』のバスジャックされた人質の子供のようにオシッコしたいと言い出して不憫に思った犯人の川谷拓三が窓から放尿させるようなシーンはなく、コトが終わるまで誰も便意を催さない。

  それに対抗する極限状態を限られた予算で描くには、間違っても自主映画監督が撮るようなエレベーターの中に閉じこめられる話ではない。朝まで退出することができない密室の乱交パーティという人工的極限状態を設定した三浦は、必然的に裸になり、しかも性行為を全員が積極的に行おうとするからこそ剥き出しになる人間性を描こうとする。もちろん、その中には排泄行為も含まれる(劇中には何度かトイレを使用するシーンがあり、トイレ後にシャワーで洗浄しない者は咎められる)。

  最初にソファーに女子大生、保育士、OLが座り、カウンターの椅子に大量のピアスをつけた女、男たちは床に座っている。この段階では男たちの地位は低く、女性上位の構図になっている。ごく普通の外見の保育士とOLは直ぐに打ち解けて会話を始め、それにすがるように、茶髪のフリーターは気軽に女たちに声をかけ、サラリーマンもそれに続く。このようにしてカーストが形成され、その場における身分差が明らかになっていく。おずおずとしたニートの男や女子大生は必然的に結びつき、工場に勤務する太った童貞男はピアスの女に声をかけ……といった具合に、順当に分相応な関係が生まれていく。やがてカーストが一部で変転し、ソファという上位カーストのみが座ることが可能な場に男の何人かが座り、女の中から床に引きずり降ろされる者が出てくる。『恋の渦』でも描かれたこういった三浦が得意とする構図は、図式的になりすぎると嫌味になるが、バカ話とスケベ話で埋められた如何にも凡庸な会話で展開するのが面白い。

  しかし、会話や展開は流石に名作戯曲と思わせるものの、前半の他人同士が徐々に探りあいながら、自分のしかるべきカーストを探るグダグダした時間が、舞台では客席と共有されたリアルな時間になるのだろうが、映画ではそのまま映画が停滞しているようにしかならない。演劇空間を映画空間にするために、映画の冒頭と最後に外のシーンを入れたり、部屋の美術や、撮影で様々な工夫が凝らしてあるものの、本質的な問題はそこではない。例えば「無言の間」を、リアルな「無言の間」ではなく、映画の時間で「無言の間」を見せないと、観客は退屈してしまう。同じ三浦の作でも映画『恋の渦』が優れていたのは、徹底して映像の言語に戯曲を組み替えることに徹していたからだろう。複数のカメラを用いて部屋の奥行き、人物の配置、移動も映像効果が計算され尽くしており、逆にプロの俳優を起用して、美術も丹念に揃えられた、ちゃんとした映画として撮られた『愛の渦』に映画としての不自由さを感じてしまう。

 もうひとつの問題としてエロの希薄さがある。もちろんそれは、裸やセックス描写の問題ではない。ハードコアポルノとして撮るのもひとつの方法だろうし、R-18に指定された映画としては大人しいものじゃないかという意見もあろうが、エロいことしか考えてない連中の映画なのに、画面からはエロが滲み出てこない。裸のない『恋の渦』には、そこかしこにエロが漂っていたが、本作は映画としての体裁を重視する過程でエロが漂白されてしまったようだ。演劇空間を映画空間に置き換えるための作業が、『愛の渦』をかしこまった映画にしてしまったのではないか。強固に作られた原作なのだから、映画を壊しにかかっても充分持つだけの耐久性を持っているはずなのだが。

  ただ、終盤の朝の描写には惹かれるものがあった。『四畳半襖の裏張り』の布団で交わる宮下順子らの後ろの障子が闇から陽の光へと移り変わる朝の描写以来の、というのは明らかに大げさだが、セックスと朝を映画で描いた中でも忘れがたいシーンになっている。

『小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台』

老いたガイキチもやはりガイキチを知る

  生きていると、いろんなことが起きる。まさか、81歳の小林信彦と、72歳の萩本欽一が、喜劇人について語った本が2014年に読めるとは!

   『日本の喜劇人』(新潮文庫)の著者である小林信彦には、横山やすし植木等藤山寛美伊東四朗渥美清らの評伝もある。リアルタイムで見て活字で評価してきたものを、現在の目で再構成できるのだから怖いものがない。しかもテレビ番組の構成作家、原作者といった立場で彼らの内側も垣間見ているので、小林信彦によって書かれる喜劇人の本は、めっぽう面白い。優れた観客であり、批評家であり、作り手でもあったことで、内と外を同時に俯瞰することが可能になるのだ。

 時間が許せば、谷啓青島幸男萩本欽一の評伝も書かれたのではないかと想像したが、それらのエッセンスは『テレビの黄金時代』(文春文庫)に凝縮されている。

  短いコラムなどを別にして、小林信彦が喜劇人の本を出すことは、もう無いと思っていた。2008年に新潮社から箱入りの『定本 日本の喜劇人』という大冊が出版されたが、ここには『日本の喜劇人』『日本の喜劇人2(『植木等藤山寛美喜劇人とその時代』→『喜劇人に花束を』改題)』『おかしな男 渥美清』(喜劇人篇)、『笑学百科』『天才伝説 横山やすし』(エンタテイナー篇)が収録されており、まさに小林信彦の喜劇論を集大成にした一冊であった。

  実際、その後はエンターテインメント系のコラムで健筆をふるう一方で、『日本橋バビロン』『流される』(文春文庫)という私小説と随筆の中間にあるような世界を展開させており、老年期に相応しい仕事を見せている。それだけに、唐突にも思わせるタイミングで萩本欽一との対談本が発売されたのには驚かざるをえなかった。その謎は、巻末のあとがきの冒頭に小林が記した一文で明かされる。

 「突然、集英社の人から電話が入って、萩本欽一さんが私から話を聞きたい、そして本をつくりたい、という希望とのことだった。」

  この手があったかと思った。本書は萩本の企画であり、萩本が聞き手なのである。そうでなければ、喜劇人に対して一見識があり、気難しいと言われる小林が、そう簡単にこんな本を出すわけがないでしょうが。

   芸人とは距離を置いたつきあいをしてきた小林にとって、萩本は例外的な存在である。『24時間テレビ』でマラソンをすると聞けばテレビで応援し、長野五輪で欽ちゃんが司会をすると聞けば五輪嫌いやテレビ嫌いを覆して見る。

 「ぼくは萩本欽一が心配なので見たのだ。」「欽ちゃんがみっともなくなると困るな、というのが正直な想いだったから」(『人生は五十一から』文春文庫)

  もっとも、60年代後半は別にして、のべつ会っていたわけでもなく、時折、顔を合わせていたに過ぎない。

  今回の対談の布石となったのは、5年前に元日本テレビのプロデューサー井原高忠の傘寿のパーティで再会したことだろう。この時の様子は『欽ちゃん!』(『森繁さんの長い影』文春文庫)に記されているが、「三十年ぶりぐらい」に会った欽ちゃんとの対話が再現されている。小林らしいのは、昔話をするのではなく、コント55号全盛期のアーカイヴ映像で欽ちゃんのトリビュート番組が作れないかと、かねての持論を本人にぶつけるところである。

  小林と萩本の関係については、「三十年」ぐらい前に小林自身が記したフレーズが最も的を射ていると思われる。曰く「ガイキチはガイキチを知る」。

  ガイキチとは、キチガイの意である。1977年末、小林は萩本と5年半ぶりに再会した。2人で密談をするうちに、「欽ちゃんは燃え上がって、来年は勉強をするために、日本テレビの番組をオリる、と、突然、言い始めた。」。ガイキチ小林との会話がガイキチ欽ちゃんに刃物を持たせたわけである。その状態を小林は「ガイキチはガイキチを知る」と言ったわけだ。

  それから35年後に行われた本書の対談は、老いたガイキチもやはりガイキチを知る――とでも言いたくなる内容になっている。81歳になっても、小林は抜群の記憶力と、当時の日記、資料も駆使して立体的に構成する作家としての視点を持って対談に挑んでいるだけに、必然的に萩本も「燃え上が」る。

  ただ、正直言って、無類に面白い対談であることは間違いないが、小林の著作をつぶさに読んでいれば、大半は既に書かれた話だけに、内容だけを取り出せば刺激に乏しいのはやむを得ない。ここで威力を発揮するのが聞き手の萩本だ。ある時期からは日本の喜劇人たちの目撃者となり、同業者となり、やがて突出した存在になる。既に書かれていた話でも、萩本がそれを受け、更に小林が返す言葉には、これまでに語られたことがない零れ落ちたエピソードや印象が含まれることになる。そのなかでも、特に印象深いのは、石田瑛二という今では忘れ去られた浅草芸人について盛り上がるくだりと、三木のり平八波むと志が演じた『源氏店』のボケとツッコミを萩本が再現して小林が大笑いするくだりだ。後者は誌面で読んでもたいして面白いわけではないが、芸人に対して芸人が面白かったと伝えるためには、こうするしかないのだということが、喜んでいる小林の反応からも伝わってくる。

  本書で語られる芸人の大半は過去の人物だが、2人とも懐古譚をする気はさらさらない。本書は若者に向けて語られた『日本の喜劇人〈対談篇〉』であり、『日本の喜劇人〈普及篇〉』である。その若々しい視点が本書の最大の魅力であり、愛すべきガイキチたちの笑いへのこだわりを、読者はただひたすら愉しむのみである。

『小さいおうち』☆☆☆★

監督/山田洋次  脚本/山田洋次 平松恵美子  出演/松たか子 黒木華 倍賞千恵子

2014年 日本 「小さいおうち」製作委員会 ビスタ 136分

 隠された性と、隠されなかった現代への暗喩 

 山田洋次は日本で最も恵まれた映画監督である。82歳を迎えて、2年に1本のペースで、潤沢に予算をかけて撮りたい映画を作り続けているのだから。松竹に同期入社した大島渚は既に亡く、旧制高校同期の森崎東は資金難の中で新作をようやく完成させた中で、前作『東京家族』(13年)から、わずか1年で新作が公開されるのだから、山田洋次の恵まれた環境と、その頑健さを羨む監督は多いだろう。

 だが、映画監督は高齢になると、当然のことにもかかわらず作品のパワーが落ちたと揶揄される。スポーツ選手のように、全盛期の記憶で人々が称賛してくれはしない。晩年の黒澤明に『七人の侍』(54年)の頃のような力がないと非難めいた言説が投げつけられる世界だ。定期的に新作を作ることができるということの緊張感もまた大きいはずだ。近年の『おとうと』(10年)『東京家族』(13年)のリメイク路線は、オリジナル企画を立ち上げる気力が薄らいだか、その時間を惜しんでの選択だったか、あるいは作らねばならない映画に対する窮余の一策だったのか。作りたい映画が見当たらないからリメイクに走ったとは思いたくないが。それにしても、山田洋次ともあろう監督が、資質の異なる市川崑小津安二郎をリメイクしても仕方あるまい。それに、山田らしさを感じさせるキャラクターたち――『おとうと』で姪の結婚式を台無しにしてしまう愚弟の笑福亭鶴瓶、『東京家族』でオリジナルから設定を変更した妻夫木聡蒼井優の結婚間近のカップル――が、前者は鶴瓶が熱演すればするほど渥美清の不在が痛々しく迫り、後者は山田映画の真骨頂とも言うべき設定が、『東京物語』(53年)という枷で不自由さを囲っていることにもどかしさを感じるばかりだった。それゆえに、直木賞受賞の同名原作を映画化した『小さいおうち』は、内容的にもこれまでにない新境地を感じさせるだけに、期待を持って観た。

 冒頭の火葬場の煙突を捉えたショットに前作からの小津の連続性を思い出させるものの、間もなくそれがこれから語られようとする倍賞千恵子が演じるタキの死であることが理解される。主人が不在となったアパートの整理を親族たちが行うが、彼らにとって彼女は伯母であり、最後まで一人暮らしを続けた彼女に懐いて身の回りの世話をした妻夫木聡にとっては大伯母に当たる。ここから近過去への回想となり、まだ健在だった彼女に妻夫木が自叙伝を書くことを勧めて、身上が書き綴られる。ここから更なる回想に入り、昭和10年代の東京山手の洋館で女中奉公をした彼女の若き日が描かれるわけだが、安易な回想形式が幅を効かせる時代に、死後と生前の老人の暮らしを含みつつ、終盤の作劇も計算された二段階の回想は、やはり巧いものだと思わせる。現代を単なる回想のための位相に置くのではなく、過去と同等に重点を置いて描こうしている。

 山形から東京へ出たタキは最初の1年を小説家の屋敷で仕えた後、その家の妻の妹に当たる平井家へ仕えることになる。ここが表題の赤い屋根の小さいおうちである。和洋折衷のモダンな家と優しい家族――殊に妻の時子(松たか子)はタキにも親身に接し、彼女を生涯この家で仕えたいと思わせる。

 家自体が実質的な主役だけに、最近の低予算映画に見慣れた目には、丁寧に作りこまれたセットに瞠目させられる。嵐の夜、夫の会社の同僚である板倉(吉岡秀隆)が夫の帰りが遅れることを告げに来る。彼は2階の窓が風に煽られて激しく開閉しているので釘で打ちつけましょうと申し出る。タキに梯子をかけてもらい、何とか扉が閉められるが、結果として帰り損ねた板倉はその晩、泊まることになる。夜半、物音に怖気づいた時子は板倉を起こすが、その際、廊下で時子は一瞬の隙を盗むように板倉の唇に体を委ねる。

 以降、2人は密会を重ねることになるが、当然、窓の釘は嵐が去った後には抜かれたはずだが、窓は閉まったままである。後に召集令状が来て故郷に帰らねばならない板倉へ、タキに促された時子は手紙を書く。それを届けに出掛けるタキを見送る際に時子は2階の窓を開く。 

 「外の光が邪魔なのよ」と口にしたのは『実録・阿部定』(75年)の宮下順子だが、窓の開閉を外界とは遮断された世界で逢瀬を重ねる時子の象徴に据えたのは良いとしても、憧れの家=時子に、板倉が夢中で釘を打ちつけるシーンに比べて、閉じられた窓が開かれるシーンの印象は薄い。ここは一人の女性の決意を感じさせなければならなかったのではないか。

 こうした女性への奥手ぶりは、本作から性的な描写を禁欲的なまでに除外してしまう。セックスシーンが無いことを問題にしているのではない。原作から脚色する段階で、山田洋次は時子と夫の関係性を改変している。原作では時子はコブつき再婚であり、夫との性交渉も感じられない。それゆえ夫の会社の同僚との不倫関係も、さもありなんとなるが、映画では夫婦関係は良好で、幸福な暮らしを送っている。それでも他の男を愛してしまうことがドラマを生むはずだが、本作は女中の視点から描いているので、そこには踏み込まない。山田洋次は最初から不倫妻の話になど興味は無かったようだ。

 では、この映画で何を描こうとしたのか。オリンピック開催に浮かれる戦前の日本が進んだ道を、現代に重ねあわせて警鐘を鳴らそうとしたというのが、ひとつの答えになるだろう。だが、同時代を舞台にした『母べえ』(08年)では治安維持法の圧政による被害者と暗い時代を強調して描きすぎた反省からか、本作では、実は明るく楽しい時代だったという視点が導入されるものの、山田洋次はあの時代をノスタルジックに描くことを拒絶する。目まぐるしいまでに現代と過去を往復させ、警鐘のドラを鳴らしまくる。しかし、それによって、現在も過去もドラマ部分が薄味になってしまう。ドラマの中に没頭しそうになると、現代に戻ってしまい、台詞でその後の展開が説明されてしまう。倍賞千恵子のモノローグによる塗りつぶしも感興を削ぐこと甚だしく、殊に手紙を読むシーンが涙声になるというわざとらしさは不快になる。

 学生という設定の妻夫木が「日本は15年戦争で中国を侵略していたんだ」「南京では大虐殺があったんだよ」と、戦前の生活を懐かしむタキに食って掛かるが、妻夫木をネット右翼にしないところに山田洋次の現代性の喪失を思う。

 原作では、タキが時子に対する憧憬を匂わせるが、映画では1シーンだけ男装の麗人中嶋朋子が時子の留守に尋ねてきた際に、タキが突然という感じで時子に抱く不安をペラペラと話し始める。それ以前から、タキが時子に思い入れを持っていることを示す機会――時子が着物の裾を乱して座り、タキに足を揉んでもらうシーンが何のフェティシズムも官能性もない――を活かせていないので、唐突なシーンに映ってしまう。

 性愛に結びつく描写は厳重に隠されながら、戦前と現代を重ねあわせる意図は前面に出た結果、歪な映画としての印象のみが残る。そして、音楽が共に久石譲で、アコーディオンを使った似た楽曲が使用されているからというわけでもないが、同時代を舞台にした宮﨑駿の『風立ちぬ』(13年)を横に並べると、山田洋次とは対照的に、空襲も一切描かず、現代との比較もモノローグにも頼らず、あの時代だけで描ききる宮崎の誤解を恐れない描写に賭けた姿勢が改めて思い出される。