『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(第1回) なぜ24歳の若者が劇場アニメーションの監督になることができたのか?

24歳の若者が製作費8億円の劇場用アニメの監督に

 映画監督になる相応しい年齢はあるだろうか? 日本を例にとれば、映画黄金期の1950年代前後は、撮影所の時代である。大手映画会社の撮影所で助監督として数年間実績を積み重ねて、監督になる。年功序列なので、よほど突出した才能がないかぎり、早くても30代でようやく監督になることができる。もっとも、こんなものはシステム上の都合にすぎない。松竹大船撮影所の助監督だった大島渚は、助監督なんて3年やれば充分だと、脚本や映画批評などで頭角を現し、27歳で監督に抜擢されている。戦前の映画黎明期に活躍した日本映画史に名を残す監督たちがデビューした年齢を見ると、山中貞雄(23歳)、溝口健二(24歳)、小津安二郎(23歳)、マキノ雅弘(18歳)と若い。海外に目を向けてもスティーブン・スピルバーグ(28歳)、ジェームズ・キャメロン(27歳)、クリストファー・ノーラン(28歳)と、20代後半で商業映画の監督になることは珍しくない。

 『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を監督した山賀博之が製作開始段階で24歳だったのは、映画史を見渡せば若すぎるわけではない。しかし、製作費8億円の劇場用アニメーションを監督実績のない若者に託すのは、今でも大胆な試みである。なぜ、こんなことが可能だったのか。

 

自主制作アニメの頂点『DAICON Ⅳ』

 『君の名は。』(16年)を監督した新海誠は、デビュー作『ほしのこえ』(02年)で監督、脚本のみならず、作画、美術、編集、果ては主人公の声まで(後に声優版も製作)1人でやってのけ、デジタル時代の新たな映画作りの可能性を提示した。とはいえ、これ以降、商業枠での長編アニメーションを製作するようになると、1人で全てを担うことは当然難しくなり、作画監督を招くなど通常のアニメーション製作と同じ方法が取られるようになった。『君の名は。』ではジブリ出身のアニメーター・安藤雅司がキャラクター・デザイン、作画監督を担当しており、他にも同じくジブリ出身の作画担当・廣田俊輔、Production I.G黄瀬和哉など錚々たるアニメーターを集めており、次回作でもこれだけのメンバーを集められるかどうかという声も出ている。ことほどさように、劇場用長編アニメの場合は、監督が優れた能力を持ち、魅力的なストーリーを書いたところで、それを描くアニメーター、美術監督などスタッフを揃えられるかどうかにかかっている。

 その点で山賀博之は、『ほしのこえ』に当たる自主映画の実績と、優秀なアニメーターたちを既に抱えていた。大阪芸術大学映像計画学科の同級生だった庵野秀明赤井孝美は在学中から突出した才能を見せていたが、岡田斗司夫らから依頼されて製作したSF大会のオープニングアニメ『DAICON Ⅲ』(81年)が話題を呼び、これをきっかけテレビの『超時空要塞マクロス』に庵野と山賀が参加するなど、プロの世界に足を踏み入れる原点となった。そこで得たノウハウは『DAICON Ⅳ』(83年)へと投入され、前作を遥かに上回るクオリティの、まさに玄人はだしの短編アニメを完成させた。

 そして、この次がもう『王立宇宙軍 オネアミスの翼』である。8mmの自主アニメから35mmの商業アニメへの進出は、どのように成されたのか。何の苦労もなく才能を見込まれて作ってしまったように見えるが、実際は根回しと慎重な足取りによってたどり着いたものだった。

 

マチュアからプロへの道のり

 究極の自主制作アニメ『DAICON Ⅳ』完成させてしまうと、アマチュアでやるべきことはなくなってしまう。同時にモラトリアム期間も終わりを告げ、それぞれ就職などを考え出す。庵野は『風の谷のナウシカ』(84年)の原画スタッフとして宮﨑駿のもとへ向かったが、山賀はこれまで自主制作でアニメ、特撮ものを製作してきたDAICON FILMの次なる展開として、オリジナル・ビデオアニメ(OVA)の製作を提案した。それがガンダムのプラモデルにしか登場しないキャラクターを主人公にした番外編だった。テレビ版の本家ガンダムとは別にオリジナルのアナザーストーリーを作ることができるという、当時としては画期的な企画だったが、バンダイビジュアルに持ち込んだものの、この企画は流れてしまう。

 この時、企画を相談されたバンダイビジュアルの渡辺繁の証言では、「モビルスーツバリエーション」というプラモデルシリーズを前に「『このシリーズのプロモーションアニメを、DAICON FILMというアマチュア集団につくらせてみないか』という企画を、岡田(斗司夫)さんは提案したんです。(…)監督としてはDAICON4のオープニングアニメを担当した山賀博之という男がいる、『風の谷のナウシカ』で原画をやった庵野秀明という男がいる」(『GAINAX INTERVIEWS』堀田純司GAINAX 著/講談社)と売り込まれたという。『DAICON Ⅳ』の監督と、巨神兵を描いた庵野という2枚看板でプッシュされたわけだ。

 ここで渡辺との関係ができたことから、以降も企画が持ち込まれるようになるが、時あたかも世界初のOVA『ダロス』(83年)がバンダイから発売され、映画、テレビ以外のアニメの可能性が生まれていた。また1984年は、アニメーション史上における重要作『風の谷のナウシカ』、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84年)、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(84年)が公開されたことも、企画を後押しした。

 こうして『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(当初は『王立宇宙軍 リイクニの翼』として始動)は、バンダイが映像事業への参入を考えていたこともあり、製作費4千万円のOVAとして動き始める。そしてDAICON FILMを発展的に解消し、新たにアニメーション製作のための新会社として設立されたのがGAINAXである。

 

宮﨑駿のお墨付き

 当初、OVAを予定していた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は、やがて劇場用アニメとして製作されることになるが、だからといって直ぐに製作費8億円がGAINAXに転がりこんできたわけではない。まずバンダイは、パイロットフィルムを山賀たちに作らせた。

 湖に面した歴史ある王国の文化、経済、風俗、しがない宇宙軍のパイロットたちと初の有人宇宙計画という劇中の世界観を詰め込んだ4分ほどの内容で、『DAICON Ⅳ』から更に格段の進化――というよりも劇場用アニメとして申し分ないクオリティを見せつける。成層圏でのロケット接続リングが切り離されるカット、打ち上げられたロケット周辺を飛ぶ戦闘機に華麗な爆発と煙。庵野秀明の才人ぶりが伝わる圧倒的なカットが並んでいる。

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 1985年に完成したこのパイロットフィルムを渡辺は、バンダイ社内は当然のこと、宮﨑駿、押井守らにも見せ、感想を聴きに行った。渡辺は「そのときに宮崎さんは『庵野君たちはアマチュアだけど、ちょっと違う存在だと思う』と評価してくれたんです。(…)『もしも必要ならばバンダイの役員会の皆さんの前でアドバイスなどをして差し上げてもいいですよ』とまで言ってくれたんですよ」(『GAINAX INTERVIEWS』)と証言する。

 この宮﨑駿のお墨付きは絶大な効果を発揮し、役員会でも宮崎の発言を伝えると、それで映画の企画が正式に通ってしまったという。それでも製作費8億円は当時としても『風の谷のナウシカ』を超える額である。山賀博之によれば「最初は三億六〇〇〇〇万円と言っていたんですが、音楽を坂本龍一に頼んだから、特別予算四〇〇〇万円必要になっちゃったんですよ。それで四億円になった。それで作っていくうちに赤字を出しちゃいまして、それが四〇〇〇万円。結局、現場での総製作費は四億四〇〇〇万円かな。(…)それで宣伝費やらなんやらで、八億」(『クイック・ジャパン VOL.18』太田出版)ということのようだが、製作費は最初、全体の4分の1のみが払われ、作業を進めつつ配給などを決めていったという。まだバンダイがオリジナルの劇場アニメを製作したことがない時期だったことから、こうした字固めを少しずつ行っていったのだ。企画開始から3年、1987年3月14日、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は公開された。

 

山賀監督の人材活用術

 本作は山賀博之が細部まで構築した世界を、庵野秀明をはじめ、貞本義行前田真宏摩砂雪といった後に一家を成すアニメーターたちによって、緻密な描き込みと動きを堪能させてくれるが、地味な話にもかかわらず、若手監督にありがちな独りよがりの観念的な作品になっていないのは、山賀がプロデューサー的資質を併せ持っていたせいだろう。何を作りたいかよりも、置かれた状況と要求の中で、何が作れるかを考えて最良の形にする能力が突出していたようだ。

 実際、大学の同級生だった島本和彦原作の漫画『アオイホノオ』でも描かれていたように、山賀は庵野、赤井、さらに貞本、前田という才人たちを目にしたとき、「この4人を手にしたら世界制覇できるんじゃないか」(『GAINAX INTERVIEWS』)とほくそ笑んだという。それだけに、彼らの能力を存分に発揮できるお膳立てを考えるのである。『王立宇宙軍 オネアミスの翼』にしても、山賀自身は「なんでも良かったんです。歴史物であろうがなんであろうが。ただ一緒にやってる以上、岡田(斗司夫)さんの意向を無視するわけにいかない。」(『クイック・ジャパン VOL.18』)という理由でSFとなり、庵野を活用するためにロケットを打ち上げる話が用意された。こうした自分が描きたい世界と、才能あふれるアニメーターたちをどう活かすかという周到な計算、そして若さに任せた勢いが、本作に奇妙な魅力を与えているようだ。

 最初に記した山中貞雄溝口健二小津安二郎らが初めて映画を撮った20代前半の頃の作品は残念ながら残っていない。ひょっとすれば、公開時25歳だった山賀博之が本作にこめた“気分”と同じものが漂っていたのではないかと想像することがある。

 

【第2回は8月10日更新】