『一万年、後....。』☆☆☆★

『一万年、後....。』(映画美学校第一試写室) ☆☆☆★

2007年 日本 YYKプロダクション カラー ビスタ 77分

監督/沖島勲    脚本/沖島勲    出演/阿藤快  田村勇馬 遠藤恵里 下杉一元 松川新 洞口依子

 

 『YYK論争 永遠の“誤解”』から8年ぶりとなる沖島勲の新作が完成したので、9月からの公開を前に一足先に見せていただいた。先日、小田原映画祭で上映された際に観に行き損ねていたので有難かった。

 デビュー作『ニュージャック&ヴェティ モダン夫婦生活讀本』以来、『出張』 『したくて、したくて、たまらない、女。 』と4本しか監督作品のない寡作ぶりであるが、足立正生が『幽閉者』で復活し、若松孝二が『実録・連合赤軍』を撮り、大和屋竺の『愛欲の罠』が発見上映されるに及んで、沖島勲が新作を撮らないで良いわけがない。

 沖島勲本人を見たのは、今回の試写会の前に一度だけある。昨年明治学院大学で行われた『第11回日本映画シンポジウム「若松孝二」』の際にゲストで登壇した際だ。その時の様子はコチラに書いたが、一部引用しておくと、

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第二部に、沖島勲のトークがあったが、沖島勲を見たのは初めてだった。貴重だったのは、自身が助監督として係わった若松プロ製作の若松・足立作品について列記したことで、これまで、前述の映芸の足立特集号に寄稿したもの等、極く僅かな資料しかなかった足立の影に隠れがちな沖島勲若松プロの関係が語られて良かった。

 沖島が吉田喜重の『水で書かれた物語』の助監督を務めたことは知っていたが、続く『女のみづうみ』では一気にチーフ助監督に抜擢される予定だったというエピソードは初耳で、結局製作延期となった為に若松プロに参加したらしいが、吉田喜重が沖島をかなり認めていたことが伺え、前述の寄稿文でも『鎖陰』のチケットを吉田喜重が大量に購入してくれる一景が出てくることからも、沖島がそのまま吉田喜重の元に居た場合どういった展開があったろうかと思った。

 以下、沖島が語った若松プロでの助監督歴だが、足立正生の作品には『堕胎』『避妊革命』『性地帯』と就いている。若松作品には『情欲の黒水仙』『白の人造美女』『日本暴行暗黒史 異常者の血』『性の放浪』『性犯罪』『網の中の暴行』『新日本暴行暗黒史 復讐鬼』『金瓶梅』『天使の恍惚』ともう一本オムニバスにも就いているらしいのだが、若松のオムニバスと言うと、初期の『おいろけ作戦』や後年の『パンツの穴 ムケそでムケないイチゴたち』ぐらいしか記憶にないので、そんなものがあったかと思っていたが、沖島もタイトルが思い出せなかったらしく、「平沢君、調べて!」と言われるや、平沢剛がフィルモグラフィー一覧を頭を抱えて見入る光景が展開され、平沢剛という後世への語り手を入手した若松映画の幸福を思ったりしたが、その後オムニバスの一本は発表されなかったので依然不明のままだ。自分も帰ってから調べたが、該当作はないようで、より詳細に『キネマ旬報ベストテン全集 1960-1969』の各年の公開作一覧でも見て調べるしかなさそうだ(このシリーズ、高いのに無理して学生の頃買っていたが、70年代版以降刊行されずに終わってしまった。キネマ旬報社は所詮その程度の会社かと再認識した)。又、可能性としては、タイトルのみ判明していて内容が不明な作品も多いから、その中にオムニバスがある。或いは、フィルモグラフィーに欠けている作品がある。或いは、変名で撮った作品に含まれている(大杉虎が自身の変名だと今回も語っていた)。或いは昨年初めて実物を観た若松プロがラブホテル用に量産した短篇ピンク等、幾つか可能性があるが、何にしても沖島が就いた作品というのは思ったよりも少ないのが意外だった。最後に沖島が若松について、一般的に異端だ何だと言われるが、「真っ当な仕事をし、堅実に(映画を)手掛けた」ヒトだと語っていたのが印象的だった。

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 上記文中で不明だった沖島が助監督に就いた若松のオムニバス映画は、その後偶々『大和屋竺ダイナマイト傑作選』を読んでいて判明した。それによれば、『密通』という1967年製作の作品で、若松・向井寛・山本晋也の3人によるオムニバスである。若松編の脚本は、大和屋竺。記憶で書くが、若松の『俺は手を汚す』では、確か監督料名目で撮ったと語っていた。

 というわけで纏めておくと、沖島勲の若松作品への助監督としての参加は、『情欲の黒水仙』『密通』『白の人造美女』『日本暴行暗黒史 異常者の血』『性の放浪』『性犯罪』『網の中の暴行』『新日本暴行暗黒史 復讐鬼』『金瓶梅』『天使の恍惚』の10本ということになる。その中で、『性の放浪』と『性犯罪』は自身の脚本だが、映画史的に語られる60年代若松プロを支えた沖島勲としては意外と本数は少ないような印象を受けるが、足立の『堕胎』『避妊革命』『性地帯』にも就いていたことを思えば順当な数字かもしれない。又、その貢献からすれば若松プロで監督したのが1本だけとは、少ないようにも思えるが、『ニュージャック&ヴェティ モダン夫婦生活讀本』のDVDに収録された高橋洋との対談によれば、若松からはそれ以前から撮れと言われていたようで、延々と一年ほど企画を思案した末に撮ったとことである。この辺りがその後の監督としての命運に現れているかもしれない。思い出したのは、松竹ヌーヴェルバーグの連中が一斉に監督に昇進した際、田村孟が監督することになり、企画を思案している間に、そう遅れを取っては不味いと吉田喜重木下恵介に泣きついて監督昇進(大島渚の主観をそのまま引用)して、さっさと『ろくでなし』を撮ってしまったのが、田村と吉田のその後に大きく違いが出たのではないかという大島の言葉を、フト、足立と沖島の関係に置き換えて考えてみたりもしたが、沖島のノンビリしたペースで作品を作っていく流れは、五月蝿いメッセージを声高に作る連中よりも好ましい。

 

 そんな沖島勲の新作は、一万年後の日本だった場所を舞台にしたSFである。つまりは、監督作の合間というよりも、脚本家としての沖島のピンク以降の代表作である『まんが日本昔ばなし』のパロディとして考えても良く、予感として沖島の映画人生の総括的作品になるのではないかと思った。

 

 

 <解体されていく映画>として『一万年、後....。』を観ていた。冒頭で、助監督がセットで準備する姿が映し出され、これから舞台になるであろうセットを引いて見せてしまう。既に映画の解体はここから始まっている。しかも、セットの前に据えられたカメラは35mmだが、実際にはAG-HVX200で撮影されたビデオ作品で、上映もプロジェクターである。日大映画学科以来、35mmで映画と接してきた沖島勲と現在の映画との断絶を思ってしまうが、それは悲観すべきことではないと画面を観る限りは思ってしまう。と言うのも、画面の充実ぶりに瞠目したからで、現在、インデペンデントの日本映画の多くで使用されているパナソニックのDVX-100以降の同系であるAG-HVX200が使用された本作だが、足立の『幽閉者』でもDVX-200Bが使用されていたので、足立・沖島が現在において映画製作にビデオを導入する、又はせざるをえない状況に置かれた中で、ビデオとどう向き合って使用するのかを、24P撮影可能なフィルムライクな色調を可能にするカメラであるがゆえに興味深く観ていたが、基本的に方法論は足立・沖島共に共通している。セット撮影を主にし(沖島の場合は全篇セット撮影)、カットを綿密に割り、照明をきっちり当てる。これは、同じカメラを使用した他の多くの作品とは決定的に異なる。DVベースで撮影する作品の大半はオールロケで、カメラに機動力があるゆえにハンディか簡易のステディカムで撮り、カット割は綿密とは言い難いものが多い。照明は殆どがノーライティングだ。流石、年配の監督は違うと簡単に言っている場合ではないのは、足立も沖島も撮影所時代の日本映画の世代ではあるが、自主映画からピンク映画へと歩んだのだから、彼らの関わった当時の作品を観ればわかるが、ロケが大半であり、余裕のある現場とは言えない中で量産してきた。従って、ビデオなんだし、オールロケでカメラを振り回した映画を作っても良さそうなものだが、スタジオ(または廃墟ビルをスタジオにして数杯のセットを組む)で、丁寧にカットを割り、光を当てている。すると、プロジェクター上映であっても実に陰影のあるカットが映し出され、VX-1000とかの頃でもライティングをちゃんとやってやると見違えるようになっていたのだから、フィルムライクな映像を作れるこのカメラならより効果は上がっており、芦澤明子の撮影の見事さによって、画面が充実している。何故、彼らは恰も撮影所を経験したかのような形式で映画撮影を行うのか。厳密に言えば、彼らは撮影所システムと無縁に映画を作っていたわけではない。学生の頃から助監督として参加していた現場には、東映や新東宝の作品もあったと言うし、彼らと付き合いのあった吉田喜重大島渚は正に撮影所出身者だし、若松の『金瓶梅』は東映撮影所で撮影されているし、スタッフも撮影所出身者が大半を占めていたことを考えても、撮影所システムを知る世代であることから、こういった撮影になるのだろうか。ビデオだし、ノーライティングでも映るから良いという発想はなく、きちんと光を当てて、きっちりとカットを割ることは当たり前という認識のもとに作られた映画たちなのだと思いながら観ていたが、雑に撮られたビデオ作品を目にすることが多いので、ここまで丁寧に作られた作品を観ていると心地良い。

 

 

 全身タイツ姿の阿藤快が、AfterEffectsの雷のエフェクトを画面に走らせながら室内に登場する冒頭を観て驚いたのは、あっという間にタイツを脱いでしまい、地味なTシャツ姿になったことだ。最近で例を挙げれば『ダフト・パンク エレクトロマ』でもそうだが、子供がヘルメットかぶってるだけで面白いだろ、と延々とそれを見せたりする実にくだらない外見の一瞬の笑いだけで、ずーっと引っ張る風潮にイライラしていただけに、今回も全身タイツだけで延々引っ張るのではないかと危惧したが、異世界へ入る際の小道具として使用しただけだったので、安心した。

 以降、最後までまるで昭和30年代を思わせる一万年後の一室で展開していくが、時として演劇臭がしてしまうのは仕方ないとは言え、突飛な世界を噛んで含めるように観客に語って聞かせる沖島勲の手馴れた語り口で、違和感なくその世界に入ることができた。言葉遊びの箇所、日本語が一万年後では変わっていると一々字幕を出すのが好きではないが、<映画>を意味する言葉が<やめとけ>というのは、一般受けは全くしないだろうが笑った。

 自分が大好きだったのは家の外を歩く怪物たちで、窓に映る影でしかその姿は見えないが、室内セットだけで展開する物語であっても、こういったシーンで作品の世界観は一気に広大に広がり、映画のレヴェルが一段ポンと跳ね上がる瞬間を体感できる。又、壁に照らし出される嘗て阿藤快が作った映画というのが『ニュージャック&ヴェティ モダン夫婦生活讀本』であることに驚く。サイレントでかなり長く自作を映しだすが、この段階で、阿藤が沖島自身であることが分かる。更に、壁に照らし出される阿藤の母親を洞口依子が演じているが、沖島勲の新作に洞口依子という映画史的な感動は置くとしても、そこで見せる表情が素晴らしい。このヒトは50年代の小津でも、60年代のピンク映画でも80年代の黒沢清でも、どこにでも登場可能なんだなと思ってしまえる表情をスクリーンの中に更に投射された映像で観ることができる。

 ラストは冒頭同様、カメラをも入れ込んだ撮影の様子を見せて終わる。自身を主人公にした未来話を、映画を解体させながら見せていったが、最終的に映画は解体されずに終わった。沖島勲は次もまた映画を撮ることになるだろう。

 

 

 足立正生の作品同様、沖島勲の作品を際立った傑作だとか、心震える秀作と思ったことは一度もない。作品そのものよりも、存在の面白さの方に興味があるんだろと言われてしまえばその通りなのだが、本作なども傑作とは思わない。しかし、面白い。こういう作品が存在してくれることが嬉しい。足立作品もそうだが、こういう作品があることで映画は面白くなって厚味を増す。こういう作品を劇場で目撃した時、映画を観続けることの幸福を覚える。評判の良い極上の作品だけを厳選していたら絶対に味わえない面白さに満ちた作品であり、自主映画規模の作品だからこそ可能になった沖島勲そのものを晒しきった作品に対面した時、それはやはり無条件に支持を表面するしかない。

 

 『一万年、後....。』は、ポレポレ東中野で9月8日(土)よりレイトショー公開される。尚、9/8と9/15にはオールナイトが企画されており、沖島勲監督・脚本作の全作上映という貴重な上映の機会なので逃してはならない。上映予定作か下記の通り。個人的に狂喜しているのは、一昨年の若松特集で観損ねた若松孝二の『性の放浪』と、未見のままだった『性犯罪』が上映されることで、この2本がずっと気にかかっていただけに、ようやく観れるので殊の外嬉しい。『性の放浪』は『人間蒸発』のパロディ、『性犯罪』はヌーヴェルバーグをやったと言われているものである。

 ■9/8(土)監督作品ナイト 23時開場 23時15分より

『ニュー・ジャック&ヴェティ』

『出張』

『したくて、したくて、たまらない、女。』

『YYK論争 “永遠の誤解”』

監督作一挙上映!

※上映前にトークあり。

 

 

■9/15(土) 脚本作ナイト 23時開場 23時15分より

『性の放浪』若松孝二監督 出口出(沖島勲)脚本

『性犯罪』 若松孝二監督 出口出(沖島勲)脚本

『紅蓮華』 渡辺護監督 沖島勲脚本

映画脚本作一挙上映!

※上映前にトークあり。

 

■『まんが日本昔ばなし』「蛇女房」「八郎潟の八郎」「ムカデの使い」(いずれも沖島勲脚本)特別上映あり

※『一万年、後....。』とカップリングして上映予定

 

http://www.1mannengo.com