〈俳優・坂本龍一〉の軌跡 (第2回)

幻の主演映画『ハリウッド・ゼン』

 『ラストエンペラー』以降の坂本龍一の俳優活動は、現段階では『ニューローズホテル』(98年)のみである。この作品で坂本は、銀縁眼鏡で冷徹な大企業の役員を演じているが、顔出し程度の役で特筆するほどではない。それよりも、この前に幻の出演作——それも、『戦メリ』『ラストエンペラー』を超えて代表作になっていたかも知れない主演作が存在した。それが大島渚監督の『ハリウッド・ゼン』である。

 フランス映画『マックス、モン・アムール』(86年)以来、新作が途絶えていた大島は、『戦メリ』のプロデューサー、ジェレミー・トーマスに新作の企画として、サイレント映画時代にハリウッドで大スターとなった日本人、早川雪洲を描く企画を提案した。

 もっとも、もとを辿れば、マックス、モン・アムール』をパリで撮影中の大島にパリ在住の日本人ジャーナリスト・平井ゆかりが取材で対面した後、自ら書いた脚本を持参したのがきっかけである。平井が書いてきたのは、1923年にパリを訪れた大杉栄アナーキストらとの会談を重ね、やがて逮捕されて国外退去処分となった実話をもとにした企画で、大島は興味を示した。なお、この1923年に日本へ強制送還された後に大杉は、前回記した関東大震災の騒乱に乗じて憲兵大尉の甘粕正彦に虐殺されることになる。

 平井が次に提案したのが早川雪洲の企画だった。大島はこの企画にも乗って、平井に脚本を書かせた。大島が改訂を指示するなど、しばらく脚本作りにかかっていたようだが、ある時、大島は単独で同じく早川雪洲を主人公にした異なる視点からの脚本を執筆することにした。言わば、若い映画志望者の企画を奪ったようなものだが、なんらかの形で納得させたのだろう。これ以前にも大島は『愛のコリーダ』(76年)の時も、旧知の脚本家・映画監督である深尾道典に脚本を書かせたが、ある時、全て引き取って単独で脚本を書いた。それが後に深尾から批判されたこともあったが、全てを一から作り出す映画監督がいる一方で、他人の才能から企画のきっかけを掴む監督もいる。『愛のコリーダ』以降の大島は、自分が作りたい映画というよりも、海外のマーケットを意識したエキゾチックな企画を好むようになっていく。

 大島の単独執筆で進み始めた『ハリウッド・ゼン』だが、脚本作りは難航する。大島によれば「困ったことに、調べれば調べるほど考えれば考えるほど、セッシュウは魅力あるキャラクターとして浮かび上がって来ないのである。たしかに明治の日本人男性として、現在の日本人男性などよりはるかに強い精神性、肉体的人格を持っていたことは事実である。しかし、それは逆にいえばマッチョということであり、その女性関係などはとうてい現代の女性の容認できるところではない。」(『戦後50年映画100年』大島渚 著/風媒社)

 こうして、当初は早川雪洲のハリウッドでの成功を描く企画が、やがて彼の妻で女優の青木ツルを中心に、雪洲を追い抜いていったルドルフ・ヴァレンチノをめぐる内容へと変わっていった。脚本が完成し、キャスティングの検討が始まると、雪洲役を坂本龍一にと最初に言い出したのは、ジェレミー・トーマスだった。大島も最初から坂本を想定していたが、プロデューサーが言い出すのを待っていたという。妻・青木ツルに相応しい日系女優が見つからず、『ラストエンペラー』で皇后役だった中国人女優のジョーン・チェンが選ばれた。そしてヴァレンチノ役はジョニー・デップを始め幾つも候補が挙がった末にアントニオ・バンデラスが決まった。

 製作費70億円、1991年11月4日クランクイン、翌年1月末クランクアップ予定の大島映画としては空前の大作である。坂本は10月から開始予定だったワールドツアーを延期して雪洲役に打ち込むと語り、カナダのトロントにロケ地も決定するなど、着々と撮影開始に向けて進んでいた。ところが、セットの建込みも始まり、あと数週間でカメラが回ろうとする中、突如として製作が中断した。ジェレミー・トーマスが行っていた製作費の調達に見込みが立たなかったからだ。当時、彼はベルトルッチの『シェルタリング・スカイ(90)の興行が不発に終わり、苦境に立たされていた。結局、製作は一時中断し、半年後の1992年5月下旬に撮影開始が延長されることになっていたが、これもまた延期となり、同じくベルトルッチの『リトル・ブッダ(93)がヒットすれば今度こそ『ハリウッド・ゼン』も――という望みも虚しく、幻の企画となって終わった。

 だが、撮影寸前まで進んだだけに、〈俳優・坂本龍一〉がこの作品でどう映されようとしていたかを窺い知ることができるヒントを大島は残している。例えば1992年春には、こう発言している。「彼(坂本龍一)には男の色気があるし、どんなときもサマになる人間的な華やかさがある。『戦メリ』から10年、英語も完璧になり一段とスケールアップした坂本さんなら雪洲を演じきれる」(『キネマ旬報19924月上旬号)

 そして、音楽も担当することになっていた坂本は「今回の映画ではジャズの時代の1920年代をどう表現するか自分も楽しみにしており、『戦メリ』以上の作品にしたい」(前掲書)と抱負を語っている。『ハリウッド・ゼン』の製作中止は、俳優としての坂本龍一の新たな飛躍と、音楽家としての坂本龍一のキャリアに加わっていたかも知れない可能性が無くなったという意味でも惜しまれる。

 

 

坂本龍一とハラキリ

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 その後、『マックス、モン・アムール』から13年の歳月を経て、大島は新撰組を描いた『御法度』(99年)を撮り、坂本は音楽監督として参加した。出演も、という話はあったようだが音楽に専念している。

 ところで、近年になって『ハリウッド・ゼン』の脚本が公刊(『大島渚著作集 第四巻 敵たちよ 同士たちよ』大島渚 著/現代思潮新社)されたことで、初めて内容の詳細も明らかとなったが、ここでも前述した坂本龍一と〈切腹〉をめぐる因縁が含まれている。それは、早川雪洲が自宅マンションのプールサイドで、ある日本人から刀を贈られるシーンに見られる。

 その刀を雪洲は傍らにいた俳優志望のルーディーことルドルフ・ヴァレンチノの喉元に突きつける。脚本には「雪洲は声を出して笑う。ルーディーは雪洲に微笑む」と、後に雪洲を追い抜いていくことになるヴァレンチノとの嫉妬愛憎を予感させる描写が書き込まれている。

 そして、刀を持ち込んだ日本人が「この刀は、乃木将軍の持っていた刀の作者によって十六世紀に作られたものです」と説明すると雪洲は怒り始める。

「なぜ乃木将軍の話をするのかね? それは日本でのことだ。私はここに住んでいる。乃木将軍には何の興味もないね」

 ルーディーが乃木将軍とは誰かを訊ねると、雪洲は「乃木希典大将は日露戦争のヒーローだった。彼は天皇の葬式の日に切腹したんだ。儀式的な自殺だけれど」と答える。さらにルーディーが戦争に勝って自殺したのか疑問を呈すると、雪洲は言う。

「自分の主人の死出の旅のお供をするというのは、日本古来の風習なのさ」

 雪洲にとって、明治天皇と殉死した乃木将軍は極めて古めかしい日本人的な美的感覚の持ち主であり、多くの日本人のような崇拝の対象ではない。そして刀を持ち込んだ日本人へ「雪洲はアメリカでは刀は必要ないということをどうかおぼえておいて下さい。僕にはスパゲティと禅があれば充分です」と言い放つ。坂本龍一が『ラストエンペラー』の切腹シーンを拒否し、『MISHIMA』の三島由紀夫役を断る背景に見え隠れした〈切腹〉という儀式への嫌悪を、間接的ながら鮮やかに描いてみせたシーンと言えよう。

 ここで坂本の俳優としてのキャリアの始まりとなった『戦場のメリークリスマス』を思い出してみよう。この作品もまた朝鮮人軍属に切腹させようとするハラ軍曹(ビートたけし)のもとへ坂本が演じるヨノイ大尉が現れるところから映画の幕が開く。〈俳優・坂本龍一〉は切腹と共にあり、そうした行為を取ろうとする者が現れると、映画の内と外に関係なく、直ちに止めるように働く存在だった。「またファナティックなバッド・ジャパニーズを演じてしまうのか」と、ぼやきつつも、そうした役を引き受け、それでいて切腹は拒絶する矜持を持つ日本人を演じ続けていたのが俳優・坂本龍一である。

 

【次回は7月20日更新】

 

主な参考文献

『季刊リュミエール』(筑摩書房

大島渚著作集 第四巻 敵たちよ 同士たちよ』(大島渚 著/現代思潮新社)

『戦後50年映画100年』(大島渚 著/風媒社)

月刊イメージフォーラム 1983年 4月増刊 「これでもまだ君は大島渚が好きか!?』(ダゲレオ出版)

ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー

『MISHIMA』(垣井道弘 著/飛鳥新社

〈俳優・坂本龍一〉の軌跡 (第1回)

 俳優・坂本龍一の誕生

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 坂本龍一の40年に及ぶキャリアの中でも、特筆すべき項目のひとつが、『ラストエンペラー』によって第60回アカデミー賞作曲賞を受賞したことだろう。

 エンニオ・モリコーネをはじめとする映画音楽の巨匠たちが、監督のベルナルド・ベルトルッチへ「オレにやらせろ」とアピールするなかで、坂本が音楽も手がけることが決まったのは、撮影終了から半年後。ベルトルッチは当初、坂本を〈俳優〉として起用しただけだった。

 俳優・坂本龍一の誕生は、今やクリスマスのスタンダードナンバーになったMerry Christmas Mr.Lawrenceを生んだ大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(83年)が原点である。坂本が演じた捕虜収容所所長のヨノイと、英国軍陸軍少佐ジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)との関係を描いた秀作だが、この役は最初から坂本龍一に決まっていたわけではなく――というより、ビートたけしデヴィッド・ボウイも含めて、キャスティングが二転三転した末に決定したものだった。

 最初の配役では、ロバート・レッドフォード滝田栄緒形拳が予定されたが、レッドフォードは大島の監督作ということで興味を示したものの、脚本を読んでアート・フィルムの要素が強いため断ってきた。結果、ハリウッドスター出演の大作を予定していたはずが雲行きは怪しくなり、製作費の調達も停滞したことから製作開始が遅れ、滝田、緒形も予定が合わなくなってしまう。レッドフォードに代わってデヴィッド・ボウイの出演が決まり、日本人俳優は、勝新太郎若山富三郎菅原文太沢田研二三浦友和らが候補となって次々とオファーしたが決まらず(沢田研二勝新太郎でも見てみたかった!)、最終的に演技では未知数の坂本龍一ビートたけしという、同時代の人気ミュージシャンと漫才師という意外な組み合わせとなった。

 これは奇をてらったものではなく、大島渚は初期作のころから「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター、六、七、八、九となくて十に新劇」と公言していた。つまり、映画の主役なんてものは演技の基礎を習得した舞台俳優や演技派ではなく、演技経験の全くない素人=新人を抜擢するか、歌手が良い。それがダメなら誰もが知っているスター俳優を起用すべきだというわけだ。実際、大島の映画は素人、新人俳優、歌手が主役になることが多い。遺作となった『御法度』(99年)も、当初は木村拓哉を主役に希望していたが、最終的にはまだ芸能界に入っていなかった松田優作の遺児、松田龍平を発掘し、これがデビュー作となった。まさに〈スターか素人〉である。その意味で、デヴィッド・ボウイ坂本龍一ビートたけしという組み合わせは、結果的に大島好みの並びとなったわけだ。

 『戦メリ』(この略称は大島渚の要望で使われることになった)の音楽は、坂本への出演交渉の席で、坂本から言い出した。大島と坂本はこのときが初対面であり、当時の坂本に映画音楽の経験はなかったが、大島は即座にその申し出を了承した。そして撮影が終わり、それまで撮ってきたものを東京に持ち帰って現像した頃、ちょうどベルナルド・ベルトルッチが来日した。5時間16分の大作『1900年』(76年)が6年遅れで日本公開されることになったためのキャンペーンである。『戦メリ』のラッシュを観たベルトルッチは、ボウイが坂本を抱き寄せるカットを、映画史上最も美しいラブシーンだと称賛したという。だが、この段階では、まだベルトルッチと坂本は出会っていない。やがて、『戦メリ』のプロデューサー、ジェレミー・トーマスが『ラストエンペラー』も手がけることになり、両者の距離が近づくことになる。その一方で、『戦メリ』と『ラストエンペラー』の間に、1本の主演映画が坂本にオファーされていた。

 1983年5月28日に『戦メリ』は公開されたが、それから1月も経たない6月16日、フランシス・F・コッポラ製作総指揮、製作・山本又一朗ポール・シュレイダー脚本・監督による『MISHIMA -11月25日・快晴-』(仮題)の製作発表が行われた。三島由紀夫の自決した日を軸にその半生と代表作を組み合わせて描く国際大作である。日本人俳優を起用した日本語の映画ということで、国内の注目も高かった。最初に三島役へオファーされた高倉健が周囲からの反対で断ると、次に名前が挙がったのが他ならぬ坂本龍一である。もちろん、これは公開中の『戦メリ』がヒットしたことによる反応だろうが、インテリジェンスとナルシズムを併せ持つ存在を演じるには、既存の俳優では難しいという判断もあったのではないか。

 坂本は“ある理由”で断ったが、その後、45歳で自決した三島を演じる日本人俳優を探すのは困難を極めた。無名の新人を含めて候補は50人にも達し、山本寛斎、永島敏行、小林薫らの名も挙がった。最終的に三島役へ決まったのは、奇しくも『戦メリ』で最初に配役されていた緒形拳だった。なお、三島の遺族からのクレームなどを理由に、この作品の日本での劇場公開は見送られた。 

 

ベルナルド・ベルトルッチとの攻防

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 坂本龍一ベルトルッチの初対面は1985年。第1回東京国際映画祭の審査委員として来日したベルトルッチと、レセプションで顔を合わせた。今度、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の話を撮る予定だと熱心に語り始めたベルトルッチと、気がついてみれば1時間以上話し込んだ坂本だったが、このときはまだ正式にオファーがあったわけではない。ただ、プロデューサーのジェレミー・トーマスは、日本人キャストに坂本と大島渚を巻き込もうと画策していた。

 1986年に正式の出演オファーがあったとき、まだ脚本ができておらず、何を演じるかもよく確認しないまま、ベルトルッチの作品に参加できるならと、坂本は出演を正式に了承する。これには理由があった。1982年に中上健次の小説『千年の愉楽』が出版されると直ぐに坂本は映画化を思い立ち、中上に申し出ると快諾を得た。監督には面識はなかったがベルナルド・ベルトルッチしかいないと坂本は考えていた。だが、中上がこの企画を角川書店の社長・角川春樹に話すと、角川映画のプロデューサーであり、『汚れた英雄』(82年)で監督デビューしたばかりでもあった角川は、「オレが監督する」と言い出したため、坂本は映画化を諦めることになった(遥か後に若松孝二監督によって映画化された)。こうした経緯があったためにベルトルッチからのオファーに無条件で了承したわけだが、後で確認すると自分が演じるのは甘粕正彦の役だと気づき、坂本はいささか後悔したという。

 というのも、甘粕正彦憲兵大尉だった1923年、関東大震災の混乱に乗じてアナーキスト大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、大杉の甥でまだ6歳だった橘宗一を拉致し、虐殺した事件を起こした人物である。懲役10年の判決により下獄していたが恩赦により保釈され、満州で特務機関を設立して暗躍。愛新覚羅溥儀とは満州国建国時に関係し、その後は満洲映画協会(以下満映)理事長の席につき、終戦と共に自決した。甘粕事件と呼ばれた虐殺事件のダークなイメージと裏腹に、満映時代は一般人には柔和な印象を持たれており、単純なヒールというわけでもない。

 これまで映画では、新東宝の『大虐殺』(60年)に甘粕事件の一端が描かれており、沼田曜一が甘粕を演じている。『ラストエンペラー』に登場するのは満映時代の甘粕である。坂本が甘粕役に怯んだのは、その経歴というよりも、「またファナティックなバッド・ジャパニーズを演じてしまうのか」(『季刊リュミエール』1987-冬 第10号)という杞憂だった。『戦メリ』のヨノイ役が、その後の〈俳優・坂本龍一〉に三島由紀夫甘粕正彦の役を引き寄せるほどの狂気と妖しさに満ちていたといえば聞こえはいいが、逆に言えば、俳優としての可能性を画一的なイメージへ押し込めてしまうほど、インパクトが強かったということでもある。

 こうした波乱を予感させながらスタートした『ラストエンペラー』の撮影は、間もなく甘粕の最期をめぐって坂本とベルトルッチの間に齟齬が生まれて表面化することになった。昭和20年8月20日に甘粕が自殺したのは史実通りだが、その死ぬ方法が、実際は青酸カリによる服毒自殺だったが、ベルトルッチは脚本で切腹へ変更していた。これに驚いた坂本は、1週間にわたって説得工作を行った。史実とは違うことよりも、例え演技でも切腹するのは嫌だと坂本は主張した。「あなたのような素晴らしい監督が自分の映画の中で切腹シーンなんか入れたら、日本人だけでなく世界中のあなたのファンが嘲笑するし悲しむからやめろ。ぼく自身もやる気はないんだから、ぼくをとるか切腹をとるかどっちかにしてくれ」(前掲書)と迫った末、ベルトリッチを折伏させることに成功した。

 ベルトルッチとすれば、本作の甘粕には日本人を象徴させる意図があっただけに、切腹というイメージが浮かんだのだろうが、坂本が『MISHIMA』で三島由紀夫役を断った“ある理由”も真相はそこにあったのではないか。前掲書で坂本は三島役を断った理由について、「やはりポール・シュレイダーベルナルド・ベルトルッチとの違いでしょうね」と、暗に才能の差を示唆したが、三島がどのような形で自死を遂げたかを踏まえれば、〈切腹〉を演じることの忌避が大きかったのではないだろうか。

 結果として『ラストエンペラー』の切腹シーンは回避され、ベルトルッチと坂本のコラボレーションが極めて上手く進んだであろうことは、坂本演じる甘粕の気品あふれる振る舞いと、底に狂気を秘めた姿をフィルムに刻み込んだことからも実感できるはずだ。

  

【2回目は7月13日更新】

 

主な参考文献

『季刊リュミエール』(筑摩書房

大島渚著作集 第四巻 敵たちよ 同士たちよ』(大島渚 著/現代思潮新社)

『戦後50年映画100年』(大島渚 著/風媒社)

月刊イメージフォーラム 1983年 4月増刊 「これでもまだ君は大島渚が好きか!?』(ダゲレオ出版)

ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー

『MISHIMA』(垣井道弘 著/飛鳥新社

 

 

『映画評論・入門!』番外編「映画評論事件史 淀川長治差別発言事件」

淀川長治差別発言事件

 

映画評論・入門! (映画秘宝セレクション)

映画評論・入門! (映画秘宝セレクション)

 

 

 5月9日に発売となる拙著『映画評論・入門!』(洋泉社・刊)は、映画評論家の発言によってスキャンダルが起きたり、映画評論を読んだことで読者が犯罪に手を染めるといった〈映画評論事件史〉的な一面からも、映画評論とは何かを感じられるような本にしたつもりなので、映画評論なんて興味ないという方にも手にとっていただければと思う。詳しくは読んでもらうとして、刊行に合わせて、本には入り切らなかった事件を書いておきたい。

 ここで取り上げる「淀川長治差別発言事件」は、ウィキペディアにも載っている有名な話だが、概要だけならネットでも分かる。しかし、その先に、〈映画評論〉の視点から見れば、もっと重要な事実が隠れている。この事件によって1本の映画評論を淀川が書かざるを得なくなった事情は、ネットや既存の本でも明らかにされているが、その映画評論に何が書かれているかまでは言及されてこなかった。差別発言のみが注目されてきたこの事件でスルーされた〈映画評論〉を軸に事件の全貌を見ていきたい。

 

 映画評論家・淀川長治は、ヨドガワ語とも言うべき独特の言葉を持っていた。『日曜洋画劇場』の解説でもよく口にした「見事な見事な」「怖い怖い」などの関西弁ではおなじみの同じフレーズを重ねることによる強調や、独自の濁音(黒澤明がクロザワ・アキラになる)など、「何ともしれん」妙に耳に残る語感を駆使することで、映画の話に引きこんでしまう。

 そんな淀川が映画に次いで好んだのが風呂である。アーノルド・シュワルツェネッガーにインタビューした際にも、一緒にお風呂へ入りましょうといったニュアンスの発言をしていたが、実際に海外の巨匠監督と風呂に入って親交を深めたことがあったように、いわば親愛の情を表す言葉として、この言葉は活用された。晩年は、こうした独特のヨドガワ語も一般的になっていたが、44年前、この無邪気な発言が問題のきっかけになった。

 1973年9月4日、『サンケイ新聞』夕刊の「こんにちは」というインタビュー欄に淀川が登場した。それ自体は珍しいものではない。生前の淀川は、折にふれて新聞、雑誌で幼い時からの映画人生を語ることが多かったからだ。

 「映画鑑賞が“生命活動”そのもの/ご馳走」という見出しが縱橫にレイアウトされたこの記事は、兼子昭一郎という記者によってルポ風にインタビューがまとめられている。つまり、インタビュアーの地の文に加えて淀川の発言が「……」で構成されたスタイルである。この形式では、インタビュアーの雑感が記事の印象を大きく左右する。

 本文を一部引用してみると、「気違いや虫には悲壮感が伴うものである。一つの職業に全身全霊を打ち込むからに違いない。(略)ところが淀川さんには、その悲壮感がない。こんなに仕事を楽しむ人も珍しい。」という文章なのだが、これだけでも、良くも悪くもこの記者の個性が反映されている記事になっていることは分かるだろう。

 淀川が語った内容は、幼い頃から映画を観てきたという、これまでもよく語られてきたものだが、問題になったのは次の件だ。

  彼の体質は、映画の体質と一致する。

「映画のどこがいいって、あの庶民性が一番ですねえ。ソバ屋も大学の先生も同じように泣いたり笑ったりするんですからねえ。庶民性がわたしにぴったりなのねえ。はい、芸術性の高い映画はあまり好きになれませんよお」

 こどものころ、家の近くに貧乏人の部落があった。学校の行き帰りの途中に位置していた。両親はそこを通らずにすむように、電車の定期を買って与えたが、一度もそれを使わなかった。それだけではない。その特殊な部落にある銭湯に入ったこともあった。

「そのときわたし、この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのねえ。エリートってだめですねえ」

 

夕刊『サンケイ新聞』(昭和48年9月4日)

  この後は、映画の仕事に就く話へ移るだけに、いっそう引用部分が目立つが、明らかに被差別部落を指した内容かつ、該当地区の銭湯に入ったことが特筆すべきことのように書かれているのは、通常の感覚で読めば明らかに差別的な記事だろう。

 もっとも、淀川の発言部分だけを取り出せば、自分の親には差別意識があったものの自分にはなく、一緒に銭湯に入ることも平気だったという発言に取れる。「貧しい人たちと液体で結ばれた」はギョッとするような表現だが、淀川にとって一緒に風呂に入ることは、あらゆる民族を越えて結びつく最良の手段という前提を知っていれば、他意がないことは分かる。

 この記事が出てから1か月が過ぎた1973年11月5日、部落解放同盟の中央機関紙である『解放新聞』が、「サンケイ新聞 あいつぐ差別」というタイトル記事を掲載した。「淀川氏(映画評論)が対談で部落の錢湯にはいったと」という見出しを添え、前掲『サンケイ』の記事を引用した上で、次の様に指摘した。

 これは両親の部落民に対する差別行為をそのまま肯定する差別発言である。さらに淀川氏が部落のフロに入ったことをことさらに書き立てることによって、無意識のうちに自分がすぐれた立場にあること、つまり部落民を差別していることをバクロしている。「部落民といっしょに食事した」といって、部落民を差別していないことを証明しようとして、ぎゃくに差別性を示すのと同じく、淀川氏のこの発言は部落差別そのものである。

 

『解放新聞』(1973年11月5日)

  そして、記事の文末には、これ以外でもサンケイ新聞が差別発言を多く掲載していることを踏まえ、「一〇月三日、大阪府連人権対策部はサンケイ新聞社に対してつよく抗議、一一月八日に糾弾集会をもつことをきめた。」と記されている。糾弾集会とは、部落解放同盟が差別事件と認識した事案について、差別発言を行なった者や関係者を呼び、事実関係を確認し、問題認識を糺すものである。

 11月8日に開かれた第1回の糾弾会に淀川の姿はなかった。サンケイ新聞側が淀川に連絡しなかったからだが、これが問題視され、12月14日に大阪市東区の府農林会館で開かれた第2回の糾弾会には淀川も出席した。会場には、府連各支部から約100人、『サンケイ』側の顔ぶれは、淀川の他に大阪の編集局長、東京・大阪両本社の編集局幹部らである。

 以下、『解放新聞』(1973年12月31日)の記事をもとに当日の様子を追ってみると、前回の欠席について淀川は「サンケイからなんの連絡もなかったので、出席のしようがなかった」と釈明した。そして差別発言について、「私は神戸出身で、差別の問題はよくわかっているつもりだった」「だから私は、あの発言は善意のつもりだったが、十五分間の対談を数十行にまとめたので真意が充分に伝わらなかった」と反省の弁を述べている。

 『解放新聞』では、これらの発言を「差別性をごまかそうとする発言がつづいた。」としている。次に、淀川が自らの言動について考えを述べた。「私は、人間はみんな平等だと常々から考え行動してきた」。

 この発言に対し、府連側は「ヒューマニズムの観点から部落問題をみるから、こんどのような同情、融和の思想がでてくるのだ。あなたのヒューマニズムは単なる“あわれみ”だけであって、なぜ、差別があるのかを根本から追求していない。まさにエセ・ヒューマニズムだ」と糾弾した。

 なお、この記事には「エセ ヒューマニズム追求/淀川氏自己批判サンケイ新聞社差別発言で」という見出しがつけられている。

 最後に次の糾弾会で「①この差別事件の分析と責任と今後の決意を表明せよ②『狭山の黒い雨』を部落問題の観点から批評せよ③これまでの一連の差別評論を明らかにし、分析せよ」との要求が出され、淀川も同意した。

 『狭山の黒い雨』(73年)とは部落解放同盟が製作した劇映画で、1963年に埼玉県狭山市で起きた女子高生への強盗強姦殺人事件——いわゆる狭山事件の映画化である。被差別部落出身の男が犯人として捕らえられ、一審では罪を認めて死刑判決となったものの、その後冤罪を主張して無期懲役が確定した。この映画が製作された当時は一審判決後の控訴期間中である。

 そして、1974年3月4日付の『解放新聞』には、同意通り、淀川による『狭山の黒い雨』批評が掲載されている。「これはただの映画ではない。云わねばならぬ人間の生活の差別の大きな問題を提示した作品である。」から始まる評は、〈部落問題の観点から批評せよ〉という要求に沿って、「犯人を勝手に作りあげるという許るされぬ不正への怒りの奥にもっと重大な問題が暗黒の形で横たわったショック」「この地区なら罠にかかった男にも世間は文句は云うまいというその底知れぬ残酷非道」「この地区のものさえが無力に近い弱さで作られた犯人を見送ってしまったその痛ましさ弱さがあふれていた」「映画が終わったが実は映画が終ったのではないことを観客はこのあと身をしみて感じるにちがいない。現に青春を失って十年、石川一雄氏はまず無実の身で捕われているその事実。」など、被害者と差別される側からの視点に寄り添って記されている。 

 映画としてはどうなのかという点にも触れている。「この映画はこのいまわしい瞬間を記録映画的なタッチで見せた。劇的に押しつけなかった。この演出この脚色が巧い。いわゆる『大人の目』でじっくりと見つめさす映画のたたづまいを持った。」「映画は常に第三者の冷静な目を意識して、この悲しい事実を、劇的には化粧していない。」「叫ばず劇的に泣かせず、新人須藤久監督のこの力作は、映画がここに生きてその怒りをこめたその一念を静かに語り描いたことで立派であった」。

 この批評の掲載をもって、淀川長治の差別発言事件は収束し、狭山事件も1974年10月に東京高等裁判所で被告に無期懲役判決が出ている。

 一方、後にこうした糾弾への批判も出てきた。『差別用語』(汐文社)では、「ここまでくると、淀川氏の知名度を計算に入れ、弱みにつけ込んだ“おどし”といわれてもしかたがない」と記され、『表現の自由と部落問題』(成沢栄寿 編著/部落問題研究所)でも「七十年余り前、全国水平社設立前に部落差別を不合理だと見た少年の心は一顧だにされず、エセ・ヒューマニズムだと追求され、『解同』理論に立つ自己批判を迫られるとともに、『解同』制作映画を批評することを約束させられた。(略)この高名な映画評論家の個性を無視し、自分たちの理論・思想に追随・同調を求めたのである。」と批判した。

 この問題の根本には、インタビューをまとめた記者の責任が大きいはずで、その記者の差別意識の方が深刻だと感じさせるだけに、淀川の責任だけがクローズアップされるのは酷だろう。ましてや『狭山の黒い雨』を批評の方向性も指定して書くように迫るのは、本質から外れている。しかし、淀川の知名度を利用したとばかりも言えない。もし、本当にそうなら、『サンケイ』なり大手のメディアで『狭山の黒い雨』を取り上げることを求めても、淀川ほどの映画評論家なら出来たはずだ。この批評は、単行本にも収録されておらず、淀川自身この事件のことには終生、触れることはなかった。

 それでも、晩年の淀川長治には〈ヒューマニズム〉を感じる瞬間が何度かあった。『シンドラーのリスト』(93年)について、「いいとこだけを見せてるの。例えば、シンドラーがこの戦争でどれだけ儲けたか。それから、ほかにもユダヤ人はたくさんいたのに、自分の工場で働く人だけ助け出す、そういうのが僕は耐えられない。」(『おしゃべりな映画館③』淀川長治・杉浦孝昭 著/マドラ出版)と発言した時など、シンドラーは現実的に自分が出来る範囲のことをやったのだから、それでいいじゃないかと思っていた筆者など、ずいぶん厳しい発言に思えたが、淀川長治にとってのヒューマニズムを示す瞬間でもあった。これは〈エセ・ヒューマニズム〉だろうか。

 『狭山の黒い雨』は現在では観る機会も限られており、筆者自身も未見なので、淀川の批評を読んで、いっそう観たいと思うようになった。映画自体にも興味はあるのだが、淀川がこの作品を、映画は映画として批評を書いたのか、それとも、指示されるままに書いたのか、映画を観ない限り判断がつかないからだ。

 しかし、かつて淀川の新聞での発言に抗議があり、糾弾の結果、淀川が批評を書かされたということのみが、この出来事をまとめた書籍や、それをもとにしたインターネット上のテキストでは流布している。差別事件の一例として見れば事実関係に間違いはないが、〈映画と批評〉という視点では、『狭山の黒い雨』を観て淀川長治による批評を読むという最も基本的な2つの機会が失われたままでいることは残念でならない。

 

【参考】

■映画評『狭山の黒い雨』

胸を突く描き方              

映画評論家 淀川長治

 

 これはただの映画ではない。云わねばならぬ人間の生活の差別の大きな問題を提示した作品である。

 犯人を勝手に作りあげるという許るされぬ不正への怒りの奥にもっと重大な問題が暗黒の形で横たわったショック。

 警察が犯人を捕うべくして逃したその手落ちにうろたえたあまり、これを埋めることのための犯人のでっち上げ。この映画はこのいまわしい瞬間を記録映画的なタッチで見せた。劇的に押しつけなかった。この演出この脚色が巧い。いわゆる「大人の目」でじっくりと見つめさす映画のたたづまいを持った。

 急所は犯人を作り上げるための罠とその網の張り場所である。この地区なら罠にかかった男にも世間は文句は云うまいというその底知れぬ残酷非道が、この映画ではあるがままの一瞬の記録映画感覚で描かれてゆく。それゆえにこそ胸を突く。

 映画は常に第三者の冷静な目を意識して、この悲しい事実を、劇的には化粧していない。脚色の見どころはこの作られた犯人に世間が無関心であったことと、この地区のものさえが無力に近い弱さで作られた犯人を見送ってしまったその痛ましさ弱さがあふれていたこと。それも実はこの映画を見終わったあとでそれがはねかえってくる描き方。

 しかしその伏せられた怒りが、やがて田中春男扮するこの地区の中年男の一見ボソリとした顔つきの中に疑問がついにこみ上げてこの地区のある場所で訴える。初めは彼も黙していた、それがたまりかねて怒りとなってきたときの、この中年男のその目のきびしさ。ここをその目のきびしさで見せた演出が効く。

 忘れにも罠にかかった青年。これを演じた桜井弘史はそのマスクの繊細さが気になったが彼の力演がその心配を吹き消して、人の良すぎる善良の哀れが、しかも喜劇的な皮肉さを見せてあふれ出た。その人の良さを巧みに利用する最も悪質な罠。しかもその調べ室でお茶が出る、するとそれだけで安心感抱いて調子づいてくるこの青年、ただ一杯のお茶で。ここにこの青年の長い間のいまわしい差別の中での育ちが感覚的に描かれて、画面のおかしさが怒りとなって盛り上る。

 映画が終わったが実は映画が終ったのではないことを観客はこのあと身をしみて感じるにちがいない。現に青春を失って十年、石川一雄氏はまず無実の身で捕われているその事実。叫ばず劇的に泣かせず、新人須藤久監督のこの力作は、映画がここに生きてその怒りをこめたその一念を静かに語り描いたことで立派であった。

 

『解放新聞』(1974年3月4日)