京マチ子はなぜ『黒い十人の女』に出演しなかったのか


黒い十人の女 予告篇

 

 映画史には無数の“if”がある。「もし、あの企画が実現していたら……」「もし、あのキャストが実現していたら……」。死んだ子の歳を数えることの虚しさは承知の上で、そうした空想に耽ることも映画の面白さのひとつだろう。その意味で、先ごろ亡くなった京マチ子が出演したかもしれない『黒い十人の女』という“if”を提示してみるのも一興だろう。

市川崑とテレビ

 本作が製作された1961年、市川崑は空飛ぶ鳥も落とすほどの存在だった。『鍵』(1959) 、『野火』(1959)、『ぼんち』(1960)、『おとうと』(1960)と、一筋縄ではいかない文芸映画を華麗なテクニックと見事な語り口で矢継ぎ早に映画化し、いずれも成功させたのだから、次なる動向に注目が集まっていた。

 1960年1月31日の『讀賣新聞』が、ブルーリボン監督賞を受賞した市川崑へインタビューを行っている。受賞作の話もそこそこに、今後の企画に話が移った。市川が挙げた新作構想は、以下のようなものだった。アルベール・カミュ原作の『ペスト』、オペレッタ『ミカド』、オリジナル企画では「人種問題と父と子という血縁関係をからませたもの」があり、そちらは「父もむすこも同じ朝鮮人、しかし父は国籍が朝鮮、むすこは日本。(略)北朝鮮帰還問題などをバックにして、社会悪という人間のはきだす不条理との戦いをえがこうとするもの」だという。また『雨』というタイトルの短篇映画も考えており、「しずかな雨、驟雨、放射能の雨などあらゆる雨をテーマにして天と地の間のハーモニーをみつめる」と語っている。

 残念ながらこのときに語られた4本の企画はいずれも実現することはなかったが、この時期、市川は映画で傑作を連打する一方で、積極的にテレビにもコミットしていた。1959年に『恋人』『冠婚葬祭』『恋飛脚大和往来・封印切りの場』『隣の椅子』、1960年に『足にさわった女』『駐車禁止』、1961年に『檸檬』『破戒』が放送された。いずれも日本テレビの番組だが、映画と平行してテレビドラマの演出を――単発ドラマが多いとは言え――手がけたというのは凄まじい。

 1960年10月28日には、日本テレビが市川を演出顧問として迎えることを発表している。現役映画監督の就任は初である。創世記の日本テレビでは、ドラマの充実を図るために映画監督を積極的に登用していた。マキノ雅弘山本薩夫山村聡井上梅次らが単発ドラマの演出にあたっていたが、最も多くの作品を手がけたのが市川である。この就任劇には実は裏があった。翌月放送される市川演出の『駐車禁止』が芸術祭参加作品となっていたが、局を代表して芸術祭に参加する作品を、外部の監督に丸々作らせることに局内で異論が出た。つまり、例え作品の質が評価されたとしても、日本テレビではなく、市川崑だから評価されたことになりはしないかという意見である。そこで、日本テレビの〈演出顧問〉という地位に付けて内部の人間ということにしておこうという折衷案が生まれたのである。

 あだしごとはさておき、市川はテレビ独自の面白さに魅せられていた。曰く「今の状態じゃ、テレビ・ドラマは映画のあとをおっかけているだけだと思う。それじゃ、いつになってもほんとうのテレビ・ドラマはできない。テレビ・ドラマは音が先で、絵があとからくっついてゆくものだから、映画よりもむしろラジオ・ドラマに近いものだ。だから、演出も映画とは本質的に違ってくるべきだね」(『讀賣新聞』1960年1月31日)

 この時期に手がけたテレビ作品は、『恋人』『足にさわった女』は映画のセルフリメイク、『檸檬』は映画では通らなかった企画をテレビに持ち込んだもの。全9回の連続ドラマ『破戒』は、好評なことから翌年に映画でセリフリメイクされるなど、映画の下にテレビがあるのではなく、両者の特性を活かした上で同じ題材を異なる表現で映像化したり、映画とテレビを行き来する市川のスタイルは、今も鮮やかに映る。

大映三大女優競演企画『黒い十人の女

 1961年最初の市川作品は、前年にテレビで撮った『駐車禁止』の映画化を予定していた。これは売春歴のある女性と結婚した防犯課の巡査を主人公にした夫婦の物語だが、市川は「もっと警察機構などを調査しなければならない」(『夕刊 讀賣新聞』1961年1月5日)という理由で製作を延期。代替企画として、かねて考えていた『黒い十人の女』に切り替えた。これは、テレビ局勤務の男が妻以外に様々な職種の女性たちと関係を持ち、妻が彼女たちを集めて男の殺害を持ちかけるという内容で、1月いっぱいで和田夏十による脚本が書かれ、春にかけて撮影を行うスケジュールが発表された。テレビの世界を覗き見ていた市川が、今度はそれを映画で描こうという企画である。まさに両者を自在に往来してきた市川らしい作品である。

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和田夏十による『黒い十人の女』構成案(『成城町271番地』白樺書房』)より

 この段階ではテレビ局勤務の男を船越英二が演じることが決定していたものの、彼をめぐる女たちは「まだ誰をどの役にということも決めていないし、第一、ご本人たちのOKもまだない」(前掲)という状況だったが、大映の永田社長は、本作を京マチ子山本富士子若尾文子の〈大映三大女優競演作〉にする意向を打ち出し、それを受けて市川も、「京さんには根強い庶民的なたくましさ、山本さんには女のあらゆる武器を利用する生活力、そして若尾ちゃんのポーカー・フェイスには現代の感触をマスターしたものがある。そういった三人個々の役柄の魅力に加えて、さらに組み合わせのおもしろさからくる新鮮なプラス・アルファを出してみたい。それからフリーの大女優にも出演していただきたいと考えている」(前掲)と構想を明かした。

 この〈フリーの大女優〉とは、岸惠子である。『おとうと』で初めて組んで以来、直ぐにテレビドラマ版『足にさわった女』にも起用したところから見ても、すっかり市川の気に入るところとなった岸に『黒い十人の女』の参加を求めたのは当然だろう。和田夏十による脚本の完成を待ってキャスティングの作業は本格化し、昭和36年3月6日付けの『夕刊 讀賣新聞』は、岸惠子が舞台女優役、山本富士子が正妻役、京マチ子はテレビ台本の印刷会社社長であり幽霊の役と記している。他に中村玉緒岸田今日子らの出演も決定したが、予定されていた若尾文子はスケジュールの都合で出演が取り止めになったと同記事が伝えている。

 ところが、1週間後には若尾に続いて京マチ子の降板が公表されることになる。

「既報、市川崑監督の『黒い十人の女』に出演する予定だった京マチ子の役が宮城まり子に変更された」(『夕刊 讀賣新聞昭和36年3月14日)

 理由まではこの短報からは知る由もないが、〈大映三大女優競演作〉から2人が降りてしまったのだから、穏やかではない。そのため、京マチ子の降板をめぐって憶測が飛び始める。ちょうど東宝では黒澤明が『用心棒』(1961)の撮影を行っていたが、降板発表後の京がひょっこり顔を出し、黒澤や三船敏郎と談笑する姿が目撃されている。この2人とは『羅生門』(1950)で組んだ仲でもあり、同作を撮影した宮川一夫も久々に黒澤作品への復帰を果たしていた。『用心棒』の撮影は、1月14日〜4月16日まで行われていたので、京が姿を見せたのが3月上旬と仮定すると、撮影スケジュールと付き合わせれば、東宝撮影所で土蔵や念仏堂のセット撮影が行われていた頃である。これまでに見せたことのない京の行動に、これは大映の専属を離れてフリーになる布石ではないかという噂が囁かれ始めた。この噂は、『用心棒』の大ヒットを受けて続編の製作が取り沙汰され始めた頃には、黒澤が次回作には京に出てもらいたがっているという話にまで広がった。

 市川崑京マチ子

 こうした京マチ子をめぐる噂には、市川作品のヒロインをめぐって岸惠子との因縁を指摘する声もあった。

 もともと京と市川は『穴』(1957)で初顔合わせを果たしたが、これは『夜の蝶』(1957)を撮り終えた京の次回作が空いてしまい、一方の市川も製作中の『炎上』が寺院側の反対を受けて撮影延期を余儀なくされ、共にスケジュールが空いているのを聞きつけた永田社長が2人を組ませることを画策した文字通り〈穴〉埋め企画である。とはいえ、実際は、この5年前にも市川は京の主演作を打診されていた。『足にさわった女』(1952)を撮影中の市川のもとへ大映のプロデューサーが現れて、「京主演の現代喜劇を」とオファーしたのだ。その時期の市川は、『恋人』(1951)、『盗まれた恋』(1951)、『結婚行進曲』(1951)など都会派喜劇を得意としており、京にもそういった作品を求めたのだろう(実際、8年後には大映で、市川のプロデュース、弟子筋の増村保造の監督でリメイク版『足にさわった女』が作られている)。

 市川は京を研究して3本の企画を立てたというが、実現直前に中止となった。そういえば、東宝で『足にさわった女』を撮り終えた後に、大映京都の製作で市川は現代劇の『あの手この手』(1952)を突然という感じで東宝から出向して撮っているが、京マチ子主演企画とも関係していたのかもしれない。

 ともあれ、こうした経緯もあり、『穴』で突如、京マチ子主演映画を仰せつかっても、市川は余裕を持って当たることが出来たのだろう。この作品で躍動的な記者を演じた京は七変化を見せ、それまでは時代劇が多く、固定化された役が多かったこともあり、ここで大胆に役柄の転換を果たした。

 少し後になるが、市川による京マチ子評に、こんなことを書いている。

「これまでの京さんは優等生すぎた。感情過多の時代劇演技も優等で免状をもらっている。しかし、これからの京さんには優等生には出せない不協和音がほしい」(『週刊読売』1959年5月3日増大号)

 実際、『穴』以降の市川とのコンビ作を観ると、『あなたと私の合言葉・さようなら、今日は』(1959)では感情を抑制させ、それをさらに過剰に押し進めた『鍵』では能面の如き極端なメイクも用いて感情を押さえ込み、底に潜む〈欲望〉を抽出している。若くしてグランプリ女優と呼ばれ、次の飛躍に伸び悩んでいた京は、市川とめぐり逢うことで一回り大きな女優になろうとしていた。

 おそらく、京にとっても市川と仕事は期するものがあったのだろう。『鍵』を経てからも、小津安二郎の『浮草』(1959)を間に挟んで、京は和田夏十が脚本を書いた田中絹代の監督作『流転の王妃』(1960)、そして市川の『ぼんち』(1960)に特別出演的な枠で顔を出し、さらに市川プロデュースの『足にさわった女』への出演と、1957〜1960年にかけて、京のフィルモグラフィは市川関連作が大きな位置を占めている。それだけに、幸田文原作の『おとうと』を市川が手がけることになったとき、京が出たいと申し出たという説が当時まことしやかに語られたのは、あながち不自然でもない。

京マチ子が出演したがったが、市川監督は岸惠子以外はダメだと断ってしまったからね」(『小説倶楽部』1961年7月特大号)

 もっとも、『おとうと』の年齢設定からすると、1924年生まれの京が演じるとなると大幅に設定を変更せねばならないだけに、果たして本当に京マチ子の申し出を跳ねて、岸惠子を選んだのかは疑問が残る。だが、岸の大映作品への進出が、市川作品のヒロイン交代を促した面は否めない。実際、「大映の看板女優だった彼女も、岸惠子の進出で、ちょっと考え方が変ってきている」(前掲書)という話もあり、『黒い十人の女』は岸が実質的な主役で、山本がそれに続く役だけに、京としては三番手の役に不満があったのではないかという見立ても出来る。

 そもそも『黒い十人の女』は、撮影開始直前まで岸の出演が不透明な状態だった。パリ在住かつ、夫で映画監督のイヴ・シャンピが妻の長期日本滞在を嫌うこともあり、市川も半ば諦めかけていた。しかし、それを聞いた永田社長が大映三大女優+岸惠子の顔合わせとなれば豪華さが増すという心算もあったのだろう。自らパリに国際電話を3回にわたってかけて直談判にあたり、3月4日にようやく出演の了承を取り付けた。もっとも、この段階では岸はパリでジャン・コクトーの舞台『影』に出演中で、4月にならなければ帰国出来ないという。市川が岸の出演にこだわったことで撮影開始が遅れることになり、その結果として若尾の降板を招いたが、こうした事態を京はどう見ていたのか。『おとうと』に次いで『黒い十人の女』でも岸に持って行かれ、撮影のスケジュールも彼女を優先して4月まで延期が決まったとあっては、京が「出たくありませんから」(前掲書)と断ったという説にも一理あるという気がしてくる。

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市川崑執筆の『黒い十人の女』絵コンテ(『成城町271番地』白樺書房)より
 金田一耕助京マチ子

 結局、京マチ子市川崑監督作への出演は『ぼんち』が最後となり、『黒い十人の女』への出演は幻となった。その後も両者が組む機会が訪れることはなかったが、70年代後半から市川が連作した金田一耕助シリーズは、大物女優が出演するのが恒例だっただけに、もしかすると京が出演する可能性があったかもしれないと思うことがある。とはいえ、『犬神家の一族』(1976)で市川は初めて組む高峰三枝子を、続く『悪魔の手毬唄』(1977)では、『黒い十人の女』以来となる岸惠子を選んだところから、最初から京は眼中になかったのかもしれないという気にもなる。

 ここでも、偶然なのか必然なのか市川崑をめぐる京マチ子岸惠子の因縁が再燃することになる。『悪魔の手毬唄』が公開された1977年4月2日は、古谷一行金田一耕助を演じたシリーズの第1作となる『犬神家の一族』の初回が毎日放送・TBS系列で放送された日でもある。この作品で、京は高峰が演じた犬神松子役を演じている。このテレビ版『犬神家〜』は、旧大映京都撮影所のスタッフによって設立された映像京都が制作にあたっており、撮影の森田富士郎、美術の西岡善信らベテラン勢が揃っている上、西岡にいたっては市川崑から金田一耕助シリーズへの参加を打診されたこともある。映像京都のスタッフにとって市川は、大映時代、『木枯し紋次郎』で勝手知ったる間柄だけに、いっそうライバル心を燃やして映画に負けない作品を作ろうとしたようだ。京の出演も、そうした映画以上の豪華さを狙った配役とおぼしい。結果としては視聴率は40%を記録したが、同じ横溝正史の原作で、〈岸恵子VS京マチ子〉の様相を呈したわけだが、京の胸中は如何許だったのだろうか。市川への対抗意識がスタッフだけでなく京にもあったのか、訊いてみたかった気がする。

 最後に『黒い十人の女』へ話を戻すと、京が演じる予定だった役は宮城まり子が愛らしく演じている。生活感がありつつ誰よりも優しく献身的で、それゆえに自責の念に駆られて死を選んで幽霊となって狂言回しを演じる役どころで、宮城の好演が印象深い分、もし、京が演じていても、さぞかし魅力的に快活な女性像を演じてみせてくれただろうと思わずにいられない。

 それだけに、市川崑×京マチ子のコンビが壊れたことが惜しくてならない。 もし、コンビが継続していたら、70年代後半以降は映画から遠ざかった京が、市川の金田一シリーズや、80年代の市川の文芸映画に登場するような"if”があったかもしれない。

 

 

【参考資料】

『崑 市川崑インタビュー』『完本 市川崑の映画たち』(市川崑森遊机 著/洋泉社)『成城町271番地』(市川崑和田夏十 著/白樺書房)『讀賣新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』『週刊新潮』『週刊読売』『週刊明星』『小説倶楽部』『出版ニュース

 

『私は二歳』 幼児とスタンダード・サイズ


Trailer 私は二歳 (1962)

育児書は映画になるか

 この世に映画にならない題材などない――この傲慢にも思える思想を実践してきたのが、市川崑和田夏十による夫婦コンビである。彼らが監督、脚本を手がけた作品の中でそれを実感したのは、おそらく三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した『炎上』(1958)が最初だろう。当初は、通常の原作ものを映画化するのと同じ手順で小説を読み解き、脚色の切り口が検討された。しかし、相手は三島である。映像を過分に喚起させる美文ゆえに、そのまま映像化すれば絵解きにしかならない。そこで三島の創作ノートを基にすることで突破口を見出した。言わば小説ではなく、〈創作ノート〉を映画化したのだ。

 以降も『鍵』(1959)、『野火』(1959)、『破戒』(1962)などの一筋縄ではいかない文芸作品を鮮やかな手さばきで映像化してみせたが、市川崑和田夏十はそこに安住することなく次なる一手として選んだのが、なんと育児書である。小児科医の松田道雄の著書『私は二歳』『私の赤ちゃん』を原作にしたのが、『私は二歳』(1962)だ。

 船越英二山本富士子が演じる団地住まいのサラリーマン夫婦の間に生まれた男の子ターちゃん。初めての子育てに一喜一憂する両親を尻目に、ターちゃんは赤ちゃんの視点から大人たちを眺める。まだ喋ることが出来ないターちゃんの心の声を中村メイ子が担当し、シニカルな発言をするのが笑わせる。後に『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967)や『吾輩は猫である』(1975)でも発揮された小さな視点からの人間への批評眼を、赤ちゃんを通じて描いている。

 市川崑は、これまでも自作にとんでもない奇想を大胆に取り込む一方で、『ビルマの竪琴』(1955、1985)を筆頭に、叫ばずにヒューマニズムを静かに訴えかけてきた作家でもあるだけに、赤ん坊を主人公にした映画だからといって、感情過多に陥ることはない。例えば岸田今日子が演じるクールな団地妻が、子どもの転落事故を聞いても顔色一つ変えずに岸田今日子的な無表情を維持していると、助かったと聞いた途端に満面の笑顔になるあたりの感情の配置、渡辺美佐子が赤ちゃんを湯に入れるシーンで汗を極端に強調したりする緩急を弁えた演出が、単に赤ちゃんを可愛がるだけの映画と違う。

 原作の松田道雄は今でも日本の育児百科の古典的存在として知られているが、当時、如何に信頼された存在だったかは、小林信彦のユーモア育児エッセイ『パパは神様じゃない』(晶文社ちくま文庫)を読んでも伝わってくる。

 

 「由紀は、松田道雄先生の本に書いてあるのと、まったく同じ段どりで成長しているわ」

 と妻が言った。

 かかる瞬間、マツダ・ミチオという名前は、あたかもシネマスコープ第一作『聖衣』の立体音響によるキリストの声のごとくに、私の耳にひびくのである。わが家においては、その信用たるや大したものであって、松田氏の赤軍派批判や日共の衆院大量当選にあたっての感想に至るまで、妻は私に伝える。

 

 同書の中では娘の成長に合わせて松田道雄の言葉が幾つも引用され、父親は安堵する。これひとつを取っても、初めての育児に戸惑い、悩む親たちにとって頼れる存在だったかが分かる。

 この時期、市川崑和田夏十の間にも長女が生まれ、二歳になろうとしており、松田道雄の存在は身近に感じていたようだ。そうした育児の経験から本作が企画されたわけだが、「育児だけでは映画として視野が狭い」(『夕刊 讀賣新聞』昭和37年8月8日)と、撮影前から市川崑は本作がワンアイデアに頼った企画ではないと語っている。実際、映画を観れば育児を中心としたホームドラマを通して日常生活と隣り合う生と死をさりげなく描くことに主眼が置かれていることに気づくはずだ。老衰による死だけではない。崖のようにそびえ立つ階段、思わぬ家庭用品からの窒息、建具からの転落――小さな子どもにとって家の中は危険がいっぱいだ。こうした視点から輪廻転生にまで踏み込みつつ、生と死を均等に描くことで、単なる育児書の映画化にとどまらない根源的な人間の営みを見つめる作品になっている。

 

二歳児を撮影するための方法

 さて、撮影にあたって問題となるのは、主人公のターちゃん(市川崑和田夏十夫妻の長男の愛称でもある)を本物の2歳児が演じるということである。当初は子役にもあたったようだが、森永ミルクとのタイアップで一般公募されることになった。主役に選ばれれば奨学金として20万円が贈呈されるということもあって、応募総数は3250名に達した。そこから市川崑のイメージに沿って写真審査で60名にまで絞られ、1962年8月8日に銀座ヤマハホールで公開オーデションが行われることになった。審査員は市川崑和田夏十、母親役の山本富士子、撮影監督の小林節雄、大映幹部の松山英夫、国立病院小児科医長の深野秀二らである。

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『週刊平凡』より(ヤマハホール、1962年8月8日)

「あの坊やだけがお母さんと離れても平気で立っていた。顔立ちもしっかりしてるし、よし、この子に決めた」(『市川崑の映画たち』)と、市川崑がターちゃん役に白羽の矢を立てたのは、当時1歳9か月の鈴木博雄君である。「たまに風邪気味になるだけで病気をしたことがない健康優良児。家庭でもめったに泣き顔をみせたことがないタフ・ベビー」(『週刊サンケイ』1962年9月17日号)と、当時の週刊誌でも報じられているが、こうした要素も起用に繋がったのだろう。

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『週刊平凡』より(ヤマハホール、1962年8月8日)

 8月8日にオーデションを終え、8月27日に撮影が開始されたが、撮影現場は危険が多く、雑多な機材がむき出しになっていることもあって、細心の注意が払われた。照明には熱を吸収するフィルターが取り付けられ、看護婦が常駐して健康状態を管理しながら撮影が進められたという。クランクインから2、3日の間は撮影に慣れさせる意味もあって、朝の30分を子どもの撮影に当てていたが、直ぐに慣れたことから1週間もすぎると、午前中に1時間、午後に1時間半というスケジュールで撮られることになった。この子どもパートの撮影では、編集で両親の船越英二山本富士子のカットバックで繋げるために様々な表情や仕草を中心に撮り、自由に動いているところを望遠レンズなどを駆使して切り取っていった。

 もっとも、訓練を受けているわけではない子どもが、喜怒哀楽を監督が命じるままにそう自由に表現できるわけはなく、〈臨時助監督〉が子どもの演技担当となった。それが鈴木博雄君の母親、祖母、叔父らである。彼女たちが交代で撮影に付きっきりとなって、市川崑の指示を受けて坊やを動かすのである。喜んでいる顔が撮りたいとなればお気に入りの玩具を与え、子どもの勘所を心得た判断をその場その場で下すことで、円滑に撮影を進めたわけだ。

 とはいえ、いつもと勝手の違う撮影に市川崑疲労困憊したようで、調布の大映撮影所から成城の自宅までの送迎車の中で珍しく寝入ってしまったという。曰く「普段なら、そのくらいの距離で寝やしないんですが、やっぱり、クタクタになっていたんでしょうね」(『市川崑の映画たち』)。

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『週刊サンケイ』より(大映撮影所にて。鈴木博雄の両隣にいるのが〈臨時助監督〉

 ところで本作は画面サイズが正方形に近いスタンダード・サイズで撮影されている。当時、日本映画の大半は横長のスコープ・サイズへと移行しており、本作を製作した大映大映スコープを導入していた。それゆえに、この時代にスタンダード・サイズで撮られているのは珍しく、本作で撮影を担当した小林節雄も一本立ちした時に数本スタンダードで撮っただけで、以降はスコープしか手がけておらず、本作が久々のスタンダード・サイズ復帰となり戸惑ったという。「クロース・アップを撮った時は、すきまなく安定感のある画面が出来て、これはいいと思った。だが一寸キャメラを引いてみると、もう勝手がぜんぜん違う」(『キネマ旬報』1962年12月上旬号)と、悪戦苦闘の撮影を語っている。本作で敢えてスタンダードサイズが選ばれたのは、光量が少なくて済むために幼児の負担軽減と、望遠レンズの種類が豊富で、遠方から撮影と意識させずに子どもを撮ることが可能という技術的な理由もあった。

 一方で、狭い団地や日本家屋を舞台にしたホームドラマをスタンダード・サイズで撮ることで、TVに接近させる意図もあったのではないか。当時、TVへの対抗から映画界が大型画面に差異を見出す中、市川崑は意図的にTV的な設定と画面の中で映画を撮ることを意図したのではないか。市川崑自身は当時、70ミリ映画も撮ってみたいと語りつつTVでの演出も多く手がけており、安易な〈映画vsテレビ〉には与しない存在でもあった。

 「今まで数多くの映画作家たちが、人生をのぞく窓として歴史的にるいるいとつみ重ねてきたスタンダード・サイズのフレームの実績には、それなりの大きな意義がある。何も固執する必要はないが、素材によっては、まだまだ当然スタンダード・サイズの映画が作られていい」(『キネマ旬報』前出)と本作の製作時に述べたように、市川崑にとって映画とTV、そしてスクリーンサイズの違いとは、画家が描く場所を選び、キャンパスの大きさを自由に選ぶのと同等の意味があったのではないか。企業の映画では、映画作家の意図よりも、興行的な要請によってカラーとなり、シネスコになってしまうのが通例だったが、『私は二歳』は、スクリーンサイズもまた映画作家が決定すべきということを実感させる作品でもある。

『柄本家のゴドー』☆☆☆★★


映画『柄本家のゴドー』予告編

 十数年前のある夜、中央線沿線のミニシアターでピンク映画のオールナイトを観ていた。何本目だったか、場内が暗くなって上映が始まる直前に中年とおぼしき男が隣に座った。おそらく、終電を逃した男がオールナイト上映を見つけて入ってきたのだろう。大きく仰け反って座る姿に、直ぐにでも寝そうな雰囲気が漂っていた。そういう気ままな映画の観方は嫌いではないが、評判のピンク映画をようやく捕まえて観に来た身としては、煩くしないでくれよと祈りつつ、上映が始まった。

 始めは退屈そうに見えた隣の男は突然、身を乗り出して食い入るように画面を凝視し始めたかと思うと、しばらくすると身体を後ろに大きく倒して、寝るんじゃないかと思うほどグッタリしている。そしてまたガバっと起きて前のめりになった。最初は落ち着きのない奴めーーとしか思っていなかったが、やがて劇中の芝居や際立つ演出に反応しているのが分かった。場内が明るくなって、さりげなく隣の男の顔を見ると、柄本明だった。

 『柄本家のゴドー』は、柄本佑柄本時生の兄弟による演劇ユニット「ET×2」がサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を上演するまでの稽古を記録したものだ。2014年に初演し、「一生つきあっていける戯曲に出会った」と語る柄本兄弟は、2017年の再演にあたって演出に柄本明を迎えた。まさに柄本家の人々によるゴドーである。

 監督が撮影監督の山崎裕だけあって、演劇に拮抗しようとか、小手先の演出でまとめあげようと思っていないところが良い。そもそも最初は作品にしようとも思わず、稽古風景を撮りたいと思ったところから出発しているだけあって、漂うように稽古場でキャメラが回り始める。

 柄本明の演出は観念的な言葉ではなく、「それは(台詞を)早く言ってるだけなんだよ」などとシンプルな言葉を連ねて修正を指示する。そして僅かな言い回し、歩き方に注文を付けて、遂には舞台に飛び上がって実演してみせる。それをじっと観察した息子たちは、その動きを真似、やがて習得していく。

 舞台の稽古を映す場合、演出家の激昂やら、演技者がそれに萎縮する姿がこれ見よがしに撮られがちだが、本作にはそうしたものはない。父は手取り足取り繰り返し説明しながら芝居を構築していくが、相手が息子だからといって特に厳しくするわけでも、手加減するわけでもない。息子たちも、後になると父のダメ出しを恐れたと語るが、画面に映るのはそうした緊張感を楽しんでいるかのように真剣に明の言葉に耳を傾ける姿だ。

 稽古風景が延々と続くだけでは単調になりそうだが、やがて本作は〈柄本明の顔の映画〉であることが分かる。舞台上の柄本兄弟と客席側で演出する父の姿は逆三角形の構図となり、キャメラはこの三角点を遠回しに撮りながら視点を探り、柄本明の顔を発見する。嬉々とした表情で大きな笑い声をあげて舞台を見つめているかと思えば、別日には険しい表情でダメ出しを続ける。刻々と変わり続ける顔はいつまで見ていても飽きることがない。そのクローズアップこそが映画であり、この豊かな表情を引き出させるのが『ゴドーを待ちながら』である。

 十数年前、隣の席でピンク映画を観ていた柄本明は、どんな表情だったのだろうか。

 

4月20日(土)より、ユーロスペースで公開。

『時をかける少女』をめぐる映画監督たち

細田守大林宣彦の奇縁

 今のところ9回にわたって映像化(そのうち映画は4回)されてきた『時をかける少女』だが、最初の映画化となった大林版『時かけ』(83)が与えた影響は絶大である。大きすぎると言っていい。実際、細田守版は、いかに大林版からの呪縛から逃れるかが、ひとつのテーマだった。

 細田と大林には意外な縁がある。細田がプロのアニメーションの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのが、『少年ケニア』(84)――角川映画が『幻魔大戦』(83)に続いて製作した劇場アニメーションである。監督は大林、主演声優は原田知世高柳良一という前年に大ヒットした『時かけ』の監督・主演コンビだ。

 劇場アニメーションに実写畑の監督が参加すると、往々にして監修的な立ち位置になりがちだが、大林は細部まで自身の意図を反映させたことで、『少年ケニア』は良くも悪くも語り継がれる作品となった。「アニメーションに関するあらゆる実験を試みました。線画だけの表現。色のコマ塗り。アニメの画面に実写の雨が降る。描かれたアニメにオプチカルをかけて、ソラリゼーションを起こさせる。実写の人物がアニメの中を歩く」(『4/9秒の言葉 4/9秒の暗闇+5/9秒の映像=映画』大林宣彦 著/創拓社)と大林が語るように、メジャー映画と実験アニメの融合とも言うべき不可思議な味わいの作品になった。

 常識破りの作品らしく、この作品では、新人アニメーターを一般公募するという企画が立てられた。当時、高校1年生だった細田は、「素人を使うなんて無茶苦茶な企画だと思ったけれど、そういえば大林監督も自主制作から商業映画監督になった人だし、ちょっと変わった面白いフィルムになるだろう」(『キネマ旬報 2006年3月上旬号)と、中学3年の時に8ミリで自主制作したペーパーアニメを応募することにした。すると、さっそく制作にあたっている東映動画(現東映アニメーション)のプロデューサーから、上京して作画の打ち合わせに入りたいと連絡が来る。高1にして細田は、大林映画のアニメスタッフに採用されたわけだ。しかし、テストが迫っていたために都合がつかず、結局、細田の『少年ケニア』デビューは幻に終わってしまう。

 これだけなら、どうということはないが、細田と大林の奇縁には続きがある。金沢美術工芸大学在学中、学祭の実行委員長を務めていた細田は、〈大林宣彦ピアノ・リサイタル〉なる催しを企画する。曰く、「大林さんはご自身でピアノを弾かれたり、作曲されたりするということを知っていたし、『少年ケニア』で大林さんとご縁があると思いこんでた」(前掲)。

 そこで、大林に連絡を取るためにたどった伝手が、高校生の頃に『少年ケニア』で連絡してきた東映動画のプロデューサーだった。ところが、先方は細田がいよいよアニメーションの世界に入るために頼ってきたのだと思い込み、スタジオを紹介しようと申し出る。こうして細田東映動画へ籍を置くことになり、アニメーターとしてのキャリアを歩み始めることになる。大林宣彦と『少年ケニア』が、細田の運命を決定づけたと言っても過言ではあるまい。なお、〈大林宣彦ピアノ・リサイタル〉は細田のアニメ業界入りのため、実現しないまま終わった。

 

大林宣彦角川映画

 大林版『時かけ』は、角川映画と大林映画の時ならぬ結合がもたらした〈個人映画的大衆娯楽映画〉というバケモノ的様相を呈している。それゆえに、細田版は全く異なるアプローチを取ることで秀作となったが、では、どうやって大林版は生まれたのか。その秘密は、角川映画大林宣彦の関係を繙かねばならない。全ての始まりは、大林のこの言葉から始まった。

角川春樹さんよ、あなたが大林宣彦を使える時代がはやくきたらいいでしょうね。」

 1978年末、映画評論家の石上三登志が責任編集を務めた雑誌『季刊映画宝庫 NO.9』(1979年新年号)で行われた石上と大林による対談の席での発言である。後に角川映画を代表する監督として知られるようになる大林が、当時、角川映画を総指揮していた角川春樹に向けて、なぜこんな言葉を発したのか説明が必要だろう。2人には、〈日本映画界〉に登場したのが、ほぼ同時期だったという共通項がある。

 1976年、角川春樹は初プロデュース作『犬神家の一族』で角川映画を誕生させた。映画製作は角川文庫を売るためと言い切り、続けて製作した『人間の証明』『野性の証明』は、莫大な製作費をかけた派手な大作を、TVスポットと主題歌の合わせ技でメディアミックスを展開し、大量宣伝によって映画と文庫を売りつける手法は、旧来の日本映画界から、顰蹙を買うに充分だった。

 一方、1977年に『HOUSE』で商業映画監督としてデビューした大林宣彦もまた、映画人からは白い目で見られていた。個人映画の旗手として1960年代後半にアンダーグラウンド映画で注目を浴び、その後はCMディレクターとしてヒットメーカーになった大林は、商業映画にCMの方法論をそのまま持ちこんだ。古めかしく、退屈な日本映画にうんざりしていた若い世代からは熱狂的に支持されたものの、年長者たちは、映画以前のシロモノと批判した。

 角川映画と大林映画は同時期に日本映画界に参入し、こんなものは映画に非ずと難詰された点で共通するだけに、互いを意識しないはずがなかった。実際、角川春樹は、『HOUSE』を劇場に飛んで行って観たという。初期の角川映画は、大作志向が強かったこともあり、撮影所出身の市川崑佐藤純彌といったベテラン監督たちを起用して、角川映画と〈日本映画界〉の齟齬を埋めざるを得なかったが、本来は大林――そして後に角川映画に参入してくる相米慎二根岸吉太郎といった新世代の監督たちと組むことが、角川春樹の理想とする映画作りに近いはずだった。

 大林と角川春樹の出会いは、1975年に遡る。ATGが製作した横溝正史原作の『本陣殺人事件』に大林は音楽監督角川春樹は企画協力として関わっていた。監督は大林の盟友である高林陽一である。大林は、「この映画がひとつの契機となって角川映画の第一作『犬神家の一族』がスタートするのだが、この横溝正史映画の監督が同じ高林陽一君でなかったことを、ぼくはこの旧友のためにだけでなく無念な気持ちで受け止めた。『新進気鋭の独立映画作家としては、ずい分安定路線の地味な起用だなぁ』というのが当時のぼくの市川崑監督についての素直な感想である。」(『映画芸術』1994年冬号)と、始まったばかりの角川映画への印象を記している。だからこそ大林は、「角川春樹さんよ、あなたが大林宣彦を使える時代がはやくきたらいいでしょうね。」という挑発的な発言をしたのだ。

 

細田版『時かけ』と『金田一耕助の冒険』の共通点

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 そして1979年、遂に角川映画と大林がタッグを組む時がやってきた。最初の作品は、『犬神家の一族』の大ヒット以来、各社で続々と映画化され、テレビドラマも高視聴率を記録していた横溝正史原作の『金田一耕助の冒険』である。1979年は映画だけでも、『金田一耕助の冒険』以外に、『悪魔が来りて笛を吹く』(東映)、『病院坂の首縊りの家』(東宝)が製作され、横溝ブームのピークを迎えていた感がある。

 したがって、〈高林陽一に『犬神家の一族』の監督を〉と大林が夢見た時と違い、もはや金田一映画を撮るのは、斬新な試みでも何でもなかった。むしろ作られすぎて、またかという食傷気味の反応すらあった。そこで角川春樹プロデューサーは、この映画を金田一映画のみならず、批判の多い角川映画のパロディまでも含んだ〈日本初の本格的パロディ映画〉にしてしまった。また脚本とは別に、ダイアローグ・ライターとして、つかこうへいが起用されている。

 大林×つかこうへいという組み合わせは今思ってもかなり乱暴だが、「最初の打ち合わせでも、金田一自身が事件を本当には何ら解決していないという気まずさを前面に出してみようとか、『ヨシ!わかった』の迷セリフで従来の金田一シリーズに欠かせなかった等々力警部に、もっと“敵”としての金田一に対する嫌悪感を出させようというアイデアが出されている」(『週刊明星』1979年4月22日)と、製作発表の段階で破天荒な作品になる予感にあふれているが、完成した映画は更にハチャメチャというか、収集がつかなくなっており、数ある映像化された横溝正史作品の中でも、今に至るまで評価が定まっていない。

 それでも、つかこうへいらしい台詞回しが随所に取り入れられたこともあり、固定化された金田一のイメージを壊そうとする意欲があふれた作品になっている。ダイアローグライターとして、つかの参加がどの程度作品に変化をもたらしたかは、つかの参加前後の脚本を比較してみれば明らかである。脚本の第二稿では事件が終わった後、残された謎について話題が出ると、金田一は、「芸術と言うものが、全て憎かったんだな。きっと」「芸術とは、全てを美化するものだよ。ハハハ……」と言うだけだが、そこにつかの筆が入ると、こうなる。

 

 金田一「(うらみがましく泣きベソをかいて)だいたい事件ってのは一から一〇までキッチリ納まるところに納まるってもんじゃないですよ、現実には。どうしたって矛盾があとに残るもんなんですよ。それをワンパターンっていわれりゃ立つ瀬がありませんよ。日本の犯罪ってのはどうしたって家族制度や血の問題がからんできちゃうんだ。それは日本の貧しさなんです。等々力さん、探偵ってのは一つの事件に対して怒りや憤りをもっちゃいけないものなんですよ。ひとつの事件からどう拡がっていくのだろう、そしてこの一つの殺人がもう一つ殺人を生むんじゃないかしら、そうこう考えることが楽しいんでしよね。私だって事件の途中で犯人を予測できるんだ。でもね、でもむやみに阻止すべきじゃないって気がするんですよ」

 

金田一耕助の冒険』脚本より

 

 饒舌に独白を続けるという、いかにもつかこうへいらしい台詞に書き換えられているが、舞台を現代に設定し、片岡千恵蔵が演じた初代金田一耕助よりも更に前に作られていたという三船敏郎が演じる〈真の初代金田一〉を登場させるなど、オリジナルへの目配せをしつつ解体する構造は、細田版『時をかける少女』に通じるものがある。細田版『時かけ』は大林版『時かけ』と対比されることが多いが、むしろ『金田一耕助の冒険』にこそ、大林宣彦細田守に共通する機知に富んだ軌跡が刻まれていると言えるのではないか。

 

それぞれの『時かけ』リメイク構想

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 大林宣彦が映画監督として評価を確立したのは、故郷の尾道を舞台にした『転校生』(82)だが、クランクイン直前にスポンサーのサンリオが降りたことで製作中止の危機に見舞われる。大林は、その前に『金田一耕助の冒険』、『ねらわれた学園』(81)を角川映画で撮っていたことから、角川春樹に救けを求めた。大林はその時の光景をこう述懐する。「『転校生』を自ら製作できないことを彼がどれほどくやしがったか。『ウチの本ではないからなァ!』と彼は天を仰いで慨嘆したものだ」(『映画芸術』1994年冬号)。角川映画は自社の文庫本を売るために映画を作るのがタテマエだった。『転校生』の原作は当時、旺文社から発売されており、角川映画が手出しできなかったのだ。その復讐戦となったのが、翌年、尾道で製作された角川映画時をかける少女』である。

 それから20数年を経て、角川映画で〈転校生〉が作られた。『転校生 さよならあなた』(07)は、大林にとって『彼のオートバイ、彼女の島』(86)以来、約20年ぶりの角川映画である。もっとも、1992年に角川春樹と大林は「ある恐竜映画の演出依頼の件」(『映画芸術』)で会ったという。時期的にも『REX 恐竜物語』(93)と見て間違いないだろうが、『全てがここから始まる 角川グループは何をめざすか』(佐藤吉之輔 著/角川グループホールディングス)によれば、「カナダでの製作をめざした『恐竜物語』もおよそ七億円を投じながら契約トラブルを生み、国内で春樹監督による製作『REX 恐竜物語』(松竹配給)に切り替えられた」ことで公開スケジュールも決まっていたことから、急遽、国内での製作に入らねばならなくなったという。

 しかし、公開までの期間が短く、角川は数人の監督に打診したが引き受けられる者はおらず、自ら監督せざるを得なくなった。おそらく大林もそうした監督候補の一人だったのだろう。実際、大林は『REX 恐竜物語』と1週違いで公開された『水の旅人 侍KIDS』(93)を手がけており、物理的に不可能という事情もあったのだろう。

 あだしごとはさておき、『転校生 さよならあなた』が角川映画で実現した時、あれほど『転校生』を角川映画として作ることが出来ないことを嘆いた角川春樹の姿はなかった。1993年、麻薬及び向精神薬取締法関税法違反の容疑で逮捕され、角川映画から姿を消していた。

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 だが、角川春樹の映画復帰は早かった。保釈期間中に角川春樹事務所を設立し、再び映画製作を再開したのだ。復帰作は自らが監督した『時をかける少女』(97)である。なぜ、かつてプロデュースした作品をリメイクするのか。その理由を角川は、これまでプロデュースしてきた作品の中で製作費をかけずにリメイクできるものはこれしかなく、また10年後、20年後にもリメイクされる可能性が高い作品であることを挙げている。そして、筒井康隆の原作を、自ら新しく興した出版社の文庫に入れることが可能になったことを付け加えている。

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 こうしてリメイクされた『時かけ』は時代設定を昭和40年代に設定し、モノクロで、CGもオプチカルも使わずに撮られた。これは、まさに大林版の真逆のアプローチこそがリメイクの可能性と勝因になり得ると考えた上でのことだろう。「今回がリメイクというより、前の作品の方が今回のリメイクというような感じにしたかった」(『キネマ旬報』1997年11月下旬号)という角川の発言は、細田版にも通じる再映画化の高度な戦術と言えよう。なお、この角川春樹監督版『時かけ』のナレーションは原田知世が担当している。

 ところでこの時期、大林はしきりと『時かけ』リメイク構想を語っていた。ハルキ文庫に収録された『時をかける少女』の巻末解説で詳しく語っているので引用しよう。

もしぼくにもう一度チャンスがあれば、今度はもう特撮など使わず、これをある兄妹の物語として描きたいと考えていた。“愛し過ぎた兄と妹”との“禁断の恋”の物語である。深町君は、死後の世界から妹に会う為に還って来たのである。タッチは日本映画の抒情的古典、木下恵介監督の〈夕やけ雲〉のような味わいが宜しかろう。

  その後、『三毛猫ホームズの推理』(98)で大林はこの構想の一部を流用し、アンニュイな兄と妹の物語に創り変えている。それにしても、角川春樹大林宣彦もCGが隆盛を迎えようとしていた時代にあえて拒絶し、VFXを使わない『時かけ』を撮ろうとしていたのが興味深い。こうして見ていくと、自分たちが作った『時かけ』に、プロデューサーも監督自身も縛られまいと抵抗してきたことが分かるはずだ。細田版が原作をリスペクトしつつ解体して、見事に再構築させたのは、こうした角川春樹大林宣彦のリメイク構想を踏まえても、必然だったと言えるだろう。

『マルサの女』(第2回) 伊丹映画と幻影の撮影所

伊丹映画のエロス、原点はロマンポルノにあり

 伊丹映画と言えば、かつてはゴールデンタイムの映画番組では、ジブリ、『男はつらいよ』シリーズと並ぶ定番だった。特にフジテレビ系列の『ゴールデン洋画劇場』での放送が多かったと記憶するが、筆者は小学生の頃に『マルサの女』(87年)を初めてテレビで観て、伊丹映画の面白さに魅せられた。ただし、問題がひとつだけあった。伊丹映画はエロい! 今ならゴールデンタイムでの放送が憚られるほど、濃密な性描写が毎回付いてくるのである。

 『お葬式』(84年)の葬儀準備中に山崎努が愛人と抜け出して行う野外ファック、『タンポポ』(85年)の役所広司黒田福美の食を介した性描写、そして『マルサの女』は、山崎努が愛人との性交場面が強烈だ。行為の後、女は股にティッシュを挟んだまま立ち上がり、カメラは女の全裸の後ろ姿を捉えているが、尻の下に目をやると股の間からティッシュが見えているのが何とも艶めかしい。他にも政治家と電話しながら愛人の股間をまさぐる場面では、恍惚の表情を浮かべる女の顔を中心に見せたりと、小学生が見るには刺激が強すぎる描写の数々が伊丹映画の名物でもあった。したがって家族団らんの席で見ようものなら、当然気まずい雰囲気になる。

 それでも伊丹映画に一貫して性描写が毎回入ってきたのは、人間を描くためには、人間の二大欲求(食欲・性欲)を描くことが不可欠と考えたためだろう。実際、性描写と同じく、必ず食にまつわるシーンも印象的に登場する。食と性の描写に、伊丹自身が非常に興味を示していたことは、時としてそれらのシーンが本編から脱線して目立ちすぎることがあることからも窺えるが、性描写に関しては、伊丹の意図を支える技術が存在した。

 ここで伊丹映画のスタッフに注目してみたい。デビュー作『お葬式』は、製作会社ニュー・センチュリー・プロデューサーズ(以下NCP)のプロデューサー・岡田裕がスタッフ編成を行ったが、その直前に伊丹が出演した『家族ゲーム』(83年)を撮影した前田米造が監督作でも担当し、以来スケジュールが合わなかった2本(『タンポポ』『あげまん』)を除き、前田は伊丹映画の撮影を担い続けた。ここまでは、映画のスタッフリストを眺めれば分かることだが、NCPは日活出身の岡田らによって設立された制作者集団であり、亡くなるまで伊丹映画のプロデューサーを務めた細越省吾、全作の編集を手掛けた鈴木晄も日活出身である。彼らは共通して、かなりの数の日活ロマンポルノに携わった経歴を持っている。一般映画としてはかなり濃厚な伊丹映画の性描写は、伊丹の演出力と共に、それを支える技術者たちが居たから実現したものでもあったのだ。実際、前述の〈股間ティッシュ〉と全く同じ描写が、曽根中生監督のロマンポルノの傑作『わたしのSEX白書 絶頂度』(76年)にも登場する。

 伊丹映画は全作を東宝が配給したため、〈東宝映画〉というイメージが強いが、製作は伊丹が自身のプロダクションの全額出資で行った、言わば自主映画だ。初期作はスタジオにセットを作る余裕はなかったが、『あげまん』(90年)から遺作の『マルタイの女』(97年)まで、スタジオでの撮影は全て調布の日活撮影所で行われている。一見したところ、〈東宝の伊丹映画〉というイメージが今でも強いが、伊丹映画は日活ロマンポルノの流れを継承する存在でもあったのだ。

 

廃墟の中のスタジオ

 伊丹十三は、自らが設立した伊丹プロダクションで製作費を全額出資して映画を作り続けてきた。デビュー作の『お葬式』は低予算——と言っても1億円以上かかっているが、自主映画である以上、ヒットしなければ次回作はない。幸い伊丹映画は全10本のうち、半分は10億円以上の配給収入を上げていたが、後半の伊丹映画は製作費が膨らみ続けていたこともあり、必ずヒットさせねばならないというプレッシャーを自身にかけていたきらいもある。

 『マルサの女』は都内の様々な場所でロケーションされた映画だが、どうしてもセットを組まなければ撮ることが出来ないシーンも出てくる。前半の税務署、後半の国税局査察部などは、実際の場所を借りて撮ることも出来ないので、必然的にセットを組む必要がある。『あげまん』以降の伊丹映画では、日活撮影所のスタジオにセットが組まれたが、もちろん、これはスタジオのレンタル費用もかかり、美術費用も含め、潤沢な製作費がないと不可能である。本作の製作費は2億数千万円だが、スタジオに税務署のセットを建てる余裕はない。それならば、自由に使える無人の広大な建物に手を加えて税務署を作り出すしかない。そんなおあつらえ向きな場所が、新宿のごく近くにあった。

 現在、東京オペラシティが建つ東京都渋谷区幡ヶ谷。ここにかつて長らく建っていたのが東京工業試験所である。広大な敷地に大正時代に建てられた研究施設が建ち並び、雰囲気のある階段、各部屋、廊下などが幾つも存在していた。70年代末に筑波へ移転した後は長らく無人の廃墟となっていたのが幸いし、80年代の低予算映画では有名ロケ地となった。『海と毒薬』(86年)では戦時中の大学病院として使用され、まるで巨大なセットの様な雰囲気を醸し出していたが、時代ものだけに使用されていたわけではない。テレビドラマ『スクールウォーズ』などでも活用されたが、伊丹十三は、黒沢清監督の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(85年)に出演した際にもここでロケを行ったが、初監督した『お葬式』でも、劇中でCMを撮影するスタジオの控室の場面で、この廃墟を使用した。そして『マルサの女』では税務署、国税局がここに作られた。

 伊丹はこの廃墟をいたく気に入り、「将来取り壊して国立劇場が建つとか聞いているが、現在の使われ方のほうが遥かに文化的だ。大都会の一隅に過去と、そして映画の未来に向かって開いているこのような通路こそが文化財というものではないか。」(『「マルサの女」日記』伊丹十三 著/文藝春秋)と絶賛した。実際、本作では壁の色をピンク、薄緑などへ塗り替えて変化をつけ、家具、備品を巧みに配置することで、一見しただけでは廃墟で撮影したとは思えないほど、活気に満ちた税務署の職場を生み出している。こうした自由に撮影する場を確保できたからこそ、税務署内、国税局内での同僚たちとの丁々発止を丁寧に撮ることができたのだ。

 余談だが、もう一人、この廃墟に魅せられた若者がいた。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の現場に下働きとして撮影隊が来る前に現場の清掃などを担当した大学生である。彼は、こんな場所に広大な廃墟があることに驚き、自主映画で「廃墟を舞台にした女吸血鬼と若い男の物語」を作ろうと決意して、後日撮影を始めた。長い階段、廊下、各部屋にロウソクを立て、吸血鬼映画に相応しい舞台を作り出した。しかし、これまで劇映画を作ったことがなかった彼は早々に挫折し、この映画は未完成に終わる。仕方なく一部のフッテージを流用しながら、自身にカメラを向けるストーリーのない実験的な作品へと作り変えた。彼はその方法を以降も実践し、自分にカメラを向けて内面を独白し、時には暴力衝動を記録し、一部で高い評価を得た。彼の名を園子温という。それから30数年を経て、最初に作りたかった吸血鬼映画を、形を変えて実現させたのが『東京ヴァンパイアホテル』(17年)である。日活撮影所に巨大なホテルのセットが組まれたが、ロビーから正面にそびえる階段といい、どこかしら東京工業試験所の廃墟の記憶を感じさせた。伊丹は前掲書で「壁も廊下も階段も中庭も、すべてがディテイルに充満している。壊される前に映画まるまる一本をこの空間で作ってみたいものだ。」と語ったが、もし、この廃墟がまだ残っていたら、伊丹十三園子温も、自由奔放な映画をここで撮っていたかも知れない。東京工業試験所——この廃墟は、80年代の日本映画を影で支えた幻の撮影所と言えるのではないか。

 

【次回更新は9月上旬】

 

『マルサの女』(第1回) 金と流行語と女

映画監督・伊丹十三

 伊丹映画と若い世代に言っても、伝わるかどうか心もとない。伊丹十三が亡くなってから20年が過ぎると、『あまちゃん』の夏ばっぱや『ひよっこ』の鈴子を演じる宮本信子の夫が伊丹十三だと説明した方が通りはいいかも知れない。

 伊丹映画は一貫して、ユニークな視点から〈日本人論〉を展開してきた。〈日本人と儀式〉を描いたデビュー作の『お葬式』(84年)に始まり、第2作の『タンポポ』(85年)は〈日本人と食〉の物語である。究極のラーメン作りに挑むヒロインと、彼女を叱咤激励するトラック運転手との仄かな恋が、ラーメンの香りと共に漂ってくる物語は、言ってしまえば『シェーン』(53年)の換骨奪胎なのだが、日本映画らしからぬカラッとしたエンターテインメントになっており、国内よりも海外で人気を集め、監督になる前は俳優として『北京の55日』(63年)などにも出演する国際俳優だった伊丹が、今度は監督として世界的に知られるようになった。

 

税金をめぐる実体験を映画に

 そんな伊丹の監督第3作かつ最高傑作の呼び声高いのが『マルサの女』(87年)である。儀式・食に続くテーマは〈日本人とお金〉。もっとも、お金をめぐる物語はさして珍しいわけではない。成り上がって金を稼いだり、財産を失ったり、ドラマの重要な小道具としてお金は使い古されてきた。だが、伊丹は意外な視点からお金を描くことにした。それが税金である。

 これは伊丹が自費を投じた『お葬式』が予想外の大ヒットをしたことから、大きな収益をもたらしたものの、ようやく成功を掴んで得た金を、税金と称して容赦なく奪い取っていく国家権力に伊丹が呆然としたことが企画の原点となった。伊丹曰く、「身も心もすりへらして、自分で金出して、自分でリスクしょって、大勢の人に有形無形の借りを作って、およそ筆舌に絶する苦労をして、やっとこさお客さんに見てもらって、そうやって稼いだ金をですね、まるで自分のものであるかのように六十五パーセント出しなさい、といって平然と持っていってしまう。」(『「マルサの女」日記』伊丹十三 著/文藝春秋

 『お葬式』が宮本信子の父の葬儀を体験したことから生まれたように、『マルサの女』は伊丹の税金をめぐる実体験から生まれたわけだが、常識的に考えて、税金を取り立てる側と、脱税する側の対決を描くなら、映画の主人公に相応しいのはアンチヒーローたる脱税側だろう。百戦錬磨の国税局と戦う市民を主人公にした方が、税金に苦労する観客も共感を覚えるに違いない。ところが伊丹は、税金を取られる側ではなく、取る側、つまり税務署側から描くことにした。何故なら、伊丹映画は常に〈日本人論〉でもあったからだ。税金という切り口で日本人の顔を見せるには、取り立てる側から描いた方が多面的に様々な顔が描けるからだ。それにあの手この手の信じ難いような脱税の手口は、現実離れしたものばかりで実に映画向きなのである。

 

流行語となったマルサ

 タイトルの〈マルサ〉とは国税局査察部の略称。『マルサ!!東京国税局査察部』(03年)、『ナサケの女 〜国税局査察官〜』(10年)など、数年ごとにマルサを舞台にした連続ドラマが作られているので、業界内用語にすぎなかった〈マルサ〉は、今では一般に馴染みのある言葉になっている。そのきっかけを作ったのが『マルサの女』である。

 元々このタイトルは、国税局査察部で働く女性が主人公だから――という理由で伊丹十三が脚本を書く際に仮題として付けていたものだった。ところが、関係者へ取材をする際に、毎回タイトルが良いと言われるので、仮題のつもりだった『マルサの女』が正式のタイトルへと昇格することになった。テーマの斬新さと、国税局査察部というこれまで描かれたことがない世界の話という物珍しさも手伝って、公開前にはすっかり〈マルサ〉という言葉が認知された。その証拠に、1987年の「第4回新語・流行語大賞」の新語部門で〈マルサ〉は金賞を受賞し、伊丹十三宮本信子が受賞者となった。その後も伊丹映画では『あげまん』(90年)、『マルタイの女』(97年)など、それぞれの業界内でしか使用されていなかった隠語、符丁をタイトルにした作品が登場した。

 

メイクで作るヒロインの造型

 『マルサの女』のヒロインとなる板倉亮子は、当時の日本映画としては珍しい自立した女性像を打ち出している。税務署員から国税局査察官へとキャリアを積み重ね、女性の少ない職場で(実際、当時の女性査察官は全国で3人しかいなかったという)、バリバリと仕事をこなす姿は、それ以前の日本映画にはなかったキャラクターである。これは、1985年に制定され、翌86年から施行された男女雇用機会均等法を踏まえた、新たな時代に相応しいヒロイン像とも言える。

 ——と言うのは一面では事実だろうが、ぶっちゃけてしまえば、伊丹映画全10本のうち、8本で主役を務めたのが妻の宮本信子であるところからも明らかだが、ようは妻を主人公にするための設定でもある。最初にも書いたように、今では伊丹十三の妻というよりも、老婆役を中心に活躍する女優という印象が強いが、宮本は長らく役に恵まれない時代が続いていた。俳優時代の伊丹と結婚前に共演した大島渚監督の『日本春歌考』(67年)にしても、伊丹が大島にぜひと薦めてキャスティングしたものだ。伊丹は宮本について、「実力はあるのに主役がこない。というより主役の女優という幻想が不足している。よし、それなら、まず主役という既成事実を先に作れば幻想はあとからついてくるのではないか」(『「お葬式」日記』伊丹十三 著/文藝春秋)と、『お葬式』で主役に抜擢し、山崎努大滝秀治菅井きんらベテラン勢と互角にわたりあう姿を見せた。そして『マルサの女』となるわけだが、ここで宮本が大物女優、スター女優でないことが幸いした。

 伊丹が最初に考案したヒロイン像は「チビでタフで、積極的で、ユーモラスで、敢然と悪に立ち向かう(略)女の刑事コロンボみたいな造型」(『「マルサの女」日記』)だった。それに合わせてメイク、髪型が考えられていったが、日本の大物女優がヒロインなら、自分をいかに魅力的に美しく見せるかにばかり執着し、例えばシャーリーズ・セロンが『モンスター』(03年)で13キロ増量し、実際の連続殺人犯をモデルにした役を凝ったメイクで演じたような真似はできないだろう。伊丹は宮本にソバカスのメイクを施し、様々なカツラを被せてヒロイン像を探っていった。試行錯誤の末に行き着いたのが、ショートボブ、ソバカス、メガネという、一見したところ宮本信子には見えないキャラクターである。こうしてキャラクターを外見も含めて作り上げていったことも『マルサの女』の大きな魅力となっている。

 日本人とお金という身近なテーマを、税金という切り口で映画にし、全く知られていなかった業界用語を流行語に変え、従来の日本映画にはないヒロインを生み出す伊丹映画の多重的な面白さは、公開から30年を経てもまだ古びていないはずだ。

 

【第2回は8月24日更新】

『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(第2回)たった一本の映画でその名を刻む伝説の映画監督になるには?

唯一無二の作品を撮ってしまった映画監督のその後

 企画開始時に22歳、公開時は25歳だった監督の山賀博之。8mmの自主制作アニメという実績のみで、製作費8億円の劇場用長編アニメーションを監督するという壮大なプロジェクトを終え、興行こそは大きく振るわなかったとはいえ、作品の評価も悪くはなく、この映画のために作られた製作会社GAINAXも存続することになったのだから、25歳の監督がこの先も長く活躍することを誰も信じて疑わなかったはずだが、山賀は映画が公開された翌々月には故郷の新潟に帰ってしまった。

 その後、アニメの脚本は書いているものの監督としての経歴は、TVアニメ『まほろまてぃっく』『アベノ橋魔法☆商店街』を2001年に監督したのみ。映画監督としての第2作は、20年近く前から予告されながら、未だ実現していない。

 これからプロのアニメーション監督としてキャリアをスタートさせるにあたり、これ以上ないほど大きな花火を打ち上げた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を撮った後、なぜ新作がないのか。「あまりにも今まで、あくせくと短期間の出世だけを考えて、セコセコと生きて来た自分というものに行き当たるわけです。要するに、僕が監督になることを決意してから『王立』に至るまでの日々ってのいうのは、自分で作ったプログラムを消化するだけの日々だったんですよ。」(『クイック・ジャパン VOL.18』太田出版)と山賀は自己解析するが、大学時代から「25歳までには劇場版の監督かテレビシリーズのチーフディレクターをやらなきゃならないと考えていました。しかし25歳で監督になれる時代じゃないわけですよ。『どうしたらなれるか』、ただそれだけです。そればっかり考えていました。」(『GAINAX INTERVIEWS』堀田純司GAINAX 著/講談社)と言うだけあって、本当に25歳で監督になってしまうと、そこで目的を達成してしまったことになる。しかも、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は、山賀博之の内面世界を隅々まで使い切った作品である。

 

幻の山賀監督第2作『蒼きウル』とは?

 脚本家の新藤兼人は「誰でも1本は傑作シナリオが書ける。それは自分の体験を書くことだ」と言ったが、山賀も、それまでほとんど書いたことがないのに『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の脚本は書けてしまったという。

 映画が完成した後、山賀の映画監督第2作が動き出したのは90年代後半——『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象を起こした後である。『蒼きウル』と題された新企画は『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の50年後を舞台にした戦闘機の空中アクションを盛り込んだ続編的な構造を持つもので、元々は『エヴァ』の前に、庵野が監督するための新企画として山賀が新潟から呼び戻されてプロデューサー兼脚本担当として考えたものだった。既に原画作業まで入っていたが、スポンサーの都合で続行が不可能となり、製作中止となった。『エヴァ』がヒットした後、再始動するにあたって監督は山賀へと交代し、内容も大幅に見直されることになったが、数年ごとに今度こそ始動の報が流れるが進展の様子はない。最近では、2017年6月23日、庵野が設立した製作会社カラーから古巣のガイナックスへの未払金訴訟について、東京地裁立川支部で判決が出た際、ガイナックスが出したコメントの中に、「この六月からは劇場用アニメ大作『蒼きウル 英語題名 Uru in Blue』の制作を開始致しました。」とあり、何度目かの再始動が宣言された。

 

「たった一本の映画でその名を刻む伝説の男」

 高い評価を得ながら1、2本撮ったきり、長らく新作が途切れてしまう映画監督は少なからずいる。『地獄の逃避行』(73年)、『天国の日々』(78年)の後、『シン・レッド・ライン』(98年)までの20年間、映画界から身を引いていたテレンス・マリックはその代表的存在だが、マリックは2010年代に入ってからは、5本もの新作が製作され、今では毎年新作が観られるようになった。

 日本で、こうした寡作監督の代表を挙げるなら長谷川和彦だろう。『青春の殺人者』(76年)で監督デビューしたものの、第2作の『太陽を盗んだ男』(79年)以来実に38年、新作がない。とはいえ、何もやっていなかったわけではない。

 久々に映画を撮った監督を、“○年間の沈黙を破り”などと言うが、長谷川和彦は沈黙などしていない。撮影こそされなかったものの、常に半年後のクランクインを想定して新作を企画し、脚本を書いてきた。実際、『吉里吉里人』『禁煙法時代』『PSI』『つっぱりトミーの死』など印刷された脚本も存在する。ほかにも、デビュー間もない頃の村上龍が書いたシナリオ『コインロッカー・ベビー』(後に村上が小説に仕立て直したのが『コインロッカー・ベイビーズ』)など、数え切れないほどの未映画化企画を抱えている。そして、今に至るまで長谷川の呪縛となっているのが『連合赤軍』である。『青春の殺人者』の親殺し、『太陽を盗んだ男』の原爆製造に続く第3作が、連合赤軍の同士殺しとあさま山荘の攻防とは申し分ない大きなテーマだが、圧倒的な史実を前にフィクションで何ができるかを問われるだけに、30年にわたって抱え込んだままである。

 山賀博之にしろ、長谷川和彦にしろ、今もなおデビュー作に囚われ続けているように思える。それを超えなければ次回作を作れないという強迫観念が強すぎるという気もするが、ファンからすればそんな固いことを言わずに何でもいいから新作をみせてくれという思いだろうが、歳月が重なれば重なるほど、腰が重くなるのは想像に難くない。だが、見方を変えれば、世の監督が生涯かかっても1本撮れるかどうかという秀作を、デビュー作で撮ってしまったのだから、それを見せてもらっただけで充分ではないかという思いもある。

 園子温が半自伝的要素をこめて撮った『地獄でなぜ悪い』(13年)の劇中で映画監督を目指して自主映画を撮る主人公の長谷川博己は、こう啖呵を切る。

「オレはたった一本の名作が作りたいだけなんだ。この世界にはくだらない映画監督はごまんといる。何本も何本も作って家を建てているバカ、どうでもいい映画ばっか作って金をもらうバカ、オレはそんなのは嫌だ。たった一本の映画でその名を刻む伝説の男になりたいんだ」

 これは園子温が若き日に書いた未映画化脚本を元にしているが、主人公の台詞は才能が認められずに鬱屈していた当時の園子温の実感がこもっている。逆に言えば「たった一本の映画でその名を刻む伝説の男」に園子温はなれなかったらこそ、今では毎年数本の新作をがむしゃらに作り続ける道を選んだともいえる。その意味では、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』1本で〈伝説の男〉となった山賀博之という生き方も決して不幸ではないはずだ。

 

【次回更新は8月17日】