京マチ子はなぜ『黒い十人の女』に出演しなかったのか


黒い十人の女 予告篇

 

 映画史には無数の“if”がある。「もし、あの企画が実現していたら……」「もし、あのキャストが実現していたら……」。死んだ子の歳を数えることの虚しさは承知の上で、そうした空想に耽ることも映画の面白さのひとつだろう。その意味で、先ごろ亡くなった京マチ子が出演したかもしれない『黒い十人の女』という“if”を提示してみるのも一興だろう。 

 

市川崑とテレビ

 本作が製作された1961年、市川崑は空飛ぶ鳥も落とすほどの存在だった。『鍵』(1959) 、『野火』(1959)、『ぼんち』(1960)、『おとうと』(1960)と、一筋縄ではいかない文芸映画を華麗なテクニックと見事な語り口で矢継ぎ早に映画化し、いずれも成功させたのだから、次なる動向に注目が集まっていた。

 1960年1月31日の『讀賣新聞』が、ブルーリボン監督賞を受賞した市川崑へインタビューを行っている。受賞作の話もそこそこに、今後の企画に話が移った。市川が挙げた新作構想は、以下のようなものだった。アルベール・カミュ原作の『ペスト』、オペレッタ『ミカド』、オリジナル企画では「人種問題と父と子という血縁関係をからませたもの」があり、そちらは「父もむすこも同じ朝鮮人、しかし父は国籍が朝鮮、むすこは日本。(略)北朝鮮帰還問題などをバックにして、社会悪という人間のはきだす不条理との戦いをえがこうとするもの」だという。また『雨』というタイトルの短篇映画も考えており、「しずかな雨、驟雨、放射能の雨などあらゆる雨をテーマにして天と地の間のハーモニーをみつめる」と語っている。

 残念ながらこのときに語られた4本の企画はいずれも実現することはなかったが、この時期、市川は映画で傑作を連打する一方で、積極的にテレビにもコミットしていた。1959年に『恋人』『冠婚葬祭』『恋飛脚大和往来・封印切りの場』『隣の椅子』、1960年に『足にさわった女』『駐車禁止』、1961年に『檸檬』『破戒』が放送された。いずれも日本テレビの番組だが、映画と平行してテレビドラマの演出を――単発ドラマが多いとは言え――手がけたというのは凄まじい。

 1960年10月28日には、日本テレビが市川を演出顧問として迎えることを発表している。現役映画監督の就任は初である。創世記の日本テレビでは、ドラマの充実を図るために映画監督を積極的に登用していた。マキノ雅弘山本薩夫山村聡井上梅次らが単発ドラマの演出にあたっていたが、最も多くの作品を手がけたのが市川である。この就任劇には実は裏があった。翌月放送される市川演出の『駐車禁止』が芸術祭参加作品となっていたが、局を代表して芸術祭に参加する作品を、外部の監督に丸々作らせることに局内で異論が出た。つまり、例え作品の質が評価されたとしても、日本テレビではなく、市川崑だから評価されたことになりはしないかという意見である。そこで、日本テレビの〈演出顧問〉という地位に付けて内部の人間ということにしておこうという折衷案が生まれたのである。

 あだしごとはさておき、市川はテレビ独自の面白さに魅せられていた。曰く「今の状態じゃ、テレビ・ドラマは映画のあとをおっかけているだけだと思う。それじゃ、いつになってもほんとうのテレビ・ドラマはできない。テレビ・ドラマは音が先で、絵があとからくっついてゆくものだから、映画よりもむしろラジオ・ドラマに近いものだ。だから、演出も映画とは本質的に違ってくるべきだね」(『讀賣新聞』1960年1月31日)

 この時期に手がけたテレビ作品は、『恋人』『足にさわった女』は映画のセルフリメイク、『檸檬』は映画では通らなかった企画をテレビに持ち込んだもの。全9回の連続ドラマ『破戒』は、好評なことから翌年に映画でセリフリメイクされるなど、映画の下にテレビがあるのではなく、両者の特性を活かした上で同じ題材を異なる表現で映像化したり、映画とテレビを行き来する市川のスタイルは、今も鮮やかに映る。

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『私は二歳』 幼児とスタンダード・サイズ


Trailer 私は二歳 (1962)

育児書は映画になるか

 この世に映画にならない題材などない――この傲慢にも思える思想を実践してきたのが、市川崑和田夏十による夫婦コンビである。彼らが監督、脚本を手がけた作品の中でそれを実感したのは、おそらく三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した『炎上』(1958)が最初だろう。当初は、通常の原作ものを映画化するのと同じ手順で小説を読み解き、脚色の切り口が検討された。しかし、相手は三島である。映像を過分に喚起させる美文ゆえに、そのまま映像化すれば絵解きにしかならない。そこで三島の創作ノートを基にすることで突破口を見出した。言わば小説ではなく、〈創作ノート〉を映画化したのだ。

 以降も『鍵』(1959)、『野火』(1959)、『破戒』(1962)などの一筋縄ではいかない文芸作品を鮮やかな手さばきで映像化してみせたが、市川崑和田夏十はそこに安住することなく次なる一手として選んだのが、なんと育児書である。小児科医の松田道雄の著書『私は二歳』『私の赤ちゃん』を原作にしたのが、『私は二歳』(1962)だ。 

 船越英二山本富士子が演じる団地住まいのサラリーマン夫婦の間に生まれた男の子ターちゃん。初めての子育てに一喜一憂する両親を尻目に、ターちゃんは赤ちゃんの視点から大人たちを眺める。まだ喋ることが出来ないターちゃんの心の声を中村メイ子が担当し、シニカルな発言をするのが笑わせる。後に『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967)や『吾輩は猫である』(1975)でも発揮された小さな視点からの人間への批評眼を、赤ちゃんを通じて描いている。

 市川崑は、これまでも自作にとんでもない奇想を大胆に取り込む一方で、『ビルマの竪琴』(1955、1985)を筆頭に、叫ばずにヒューマニズムを静かに訴えかけてきた作家でもあるだけに、赤ん坊を主人公にした映画だからといって、感情過多に陥ることはない。例えば岸田今日子が演じるクールな団地妻が、子どもの転落事故を聞いても顔色一つ変えずに岸田今日子的な無表情を維持していると、助かったと聞いた途端に満面の笑顔になるあたりの感情の配置、渡辺美佐子が赤ちゃんを湯に入れるシーンで汗を極端に強調したりする緩急を弁えた演出が、単に赤ちゃんを可愛がるだけの映画と違う。

 原作の松田道雄は今でも日本の育児百科の古典的存在として知られているが、当時、如何に信頼された存在だったかは、小林信彦のユーモア育児エッセイ『パパは神様じゃない』(晶文社ちくま文庫)を読んでも伝わってくる。

 

 「由紀は、松田道雄先生の本に書いてあるのと、まったく同じ段どりで成長しているわ」

 と妻が言った。

 かかる瞬間、マツダ・ミチオという名前は、あたかもシネマスコープ第一作『聖衣』の立体音響によるキリストの声のごとくに、私の耳にひびくのである。わが家においては、その信用たるや大したものであって、松田氏の赤軍派批判や日共の衆院大量当選にあたっての感想に至るまで、妻は私に伝える。

 

 同書の中では娘の成長に合わせて松田道雄の言葉が幾つも引用され、父親は安堵する。これひとつを取っても、初めての育児に戸惑い、悩む親たちにとって頼れる存在だったかが分かる。

 この時期、市川崑和田夏十の間にも長女が生まれ、二歳になろうとしており、松田道雄の存在は身近に感じていたようだ。そうした育児の経験から本作が企画されたわけだが、「育児だけでは映画として視野が狭い」(『夕刊 讀賣新聞』昭和37年8月8日)と、撮影前から市川崑は本作がワンアイデアに頼った企画ではないと語っている。実際、映画を観れば育児を中心としたホームドラマを通して日常生活と隣り合う生と死をさりげなく描くことに主眼が置かれていることに気づくはずだ。老衰による死だけではない。崖のようにそびえ立つ階段、思わぬ家庭用品からの窒息、建具からの転落――小さな子どもにとって家の中は危険がいっぱいだ。こうした視点から輪廻転生にまで踏み込みつつ、生と死を均等に描くことで、単なる育児書の映画化にとどまらない根源的な人間の営みを見つめる作品になっている。

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『柄本家のゴドー』☆☆☆★★


映画『柄本家のゴドー』予告編

 十数年前のある夜、中央線沿線のミニシアターでピンク映画のオールナイトを観ていた。何本目だったか、場内が暗くなって上映が始まる直前に中年とおぼしき男が隣に座った。おそらく、終電を逃した男がオールナイト上映を見つけて入ってきたのだろう。大きく仰け反って座る姿に、直ぐにでも寝そうな雰囲気が漂っていた。そういう気ままな映画の観方は嫌いではないが、評判のピンク映画をようやく捕まえて観に来た身としては、煩くしないでくれよと祈りつつ、上映が始まった。

 始めは退屈そうに見えた隣の男は突然、身を乗り出して食い入るように画面を凝視し始めたかと思うと、しばらくすると身体を後ろに大きく倒して、寝るんじゃないかと思うほどグッタリしている。そしてまたガバっと起きて前のめりになった。最初は落ち着きのない奴めーーとしか思っていなかったが、やがて劇中の芝居や際立つ演出に反応しているのが分かった。場内が明るくなって、さりげなく隣の男の顔を見ると、柄本明だった。 

 『柄本家のゴドー』は、柄本佑柄本時生の兄弟による演劇ユニット「ET×2」がサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を上演するまでの稽古を記録したものだ。2014年に初演し、「一生つきあっていける戯曲に出会った」と語る柄本兄弟は、2017年の再演にあたって演出に柄本明を迎えた。まさに柄本家の人々によるゴドーである。

 監督が撮影監督の山崎裕だけあって、演劇に拮抗しようとか、小手先の演出でまとめあげようと思っていないところが良い。そもそも最初は作品にしようとも思わず、稽古風景を撮りたいと思ったところから出発しているだけあって、漂うように稽古場でキャメラが回り始める。

 柄本明の演出は観念的な言葉ではなく、「それは(台詞を)早く言ってるだけなんだよ」などとシンプルな言葉を連ねて修正を指示する。そして僅かな言い回し、歩き方に注文を付けて、遂には舞台に飛び上がって実演してみせる。それをじっと観察した息子たちは、その動きを真似、やがて習得していく。

 舞台の稽古を映す場合、演出家の激昂やら、演技者がそれに萎縮する姿がこれ見よがしに撮られがちだが、本作にはそうしたものはない。父は手取り足取り繰り返し説明しながら芝居を構築していくが、相手が息子だからといって特に厳しくするわけでも、手加減するわけでもない。息子たちも、後になると父のダメ出しを恐れたと語るが、画面に映るのはそうした緊張感を楽しんでいるかのように真剣に明の言葉に耳を傾ける姿だ。

 稽古風景が延々と続くだけでは単調になりそうだが、やがて本作は〈柄本明の顔の映画〉であることが分かる。舞台上の柄本兄弟と客席側で演出する父の姿は逆三角形の構図となり、キャメラはこの三角点を遠回しに撮りながら視点を探り、柄本明の顔を発見する。嬉々とした表情で大きな笑い声をあげて舞台を見つめているかと思えば、別日には険しい表情でダメ出しを続ける。刻々と変わり続ける顔はいつまで見ていても飽きることがない。そのクローズアップこそが映画であり、この豊かな表情を引き出させるのが『ゴドーを待ちながら』である。

 十数年前、隣の席でピンク映画を観ていた柄本明は、どんな表情だったのだろうか。

 

4月20日(土)より、ユーロスペースで公開。

『時をかける少女』をめぐる映画監督たち

細田守大林宣彦の奇縁

 今のところ9回にわたって映像化(そのうち映画は4回)されてきた『時をかける少女』だが、最初の映画化となった大林版『時かけ』(83)が与えた影響は絶大である。大きすぎると言っていい。実際、細田守版は、いかに大林版からの呪縛から逃れるかが、ひとつのテーマだった。 

 細田と大林には意外な縁がある。細田がプロのアニメーションの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのが、『少年ケニア』(84)――角川映画が『幻魔大戦』(83)に続いて製作した劇場アニメーションである。監督は大林、主演声優は原田知世高柳良一という前年に大ヒットした『時かけ』の監督・主演コンビだ。

 劇場アニメーションに実写畑の監督が参加すると、往々にして監修的な立ち位置になりがちだが、大林は細部まで自身の意図を反映させたことで、『少年ケニア』は良くも悪くも語り継がれる作品となった。「アニメーションに関するあらゆる実験を試みました。線画だけの表現。色のコマ塗り。アニメの画面に実写の雨が降る。描かれたアニメにオプチカルをかけて、ソラリゼーションを起こさせる。実写の人物がアニメの中を歩く」(『4/9秒の言葉 4/9秒の暗闇+5/9秒の映像=映画』大林宣彦 著/創拓社)と大林が語るように、メジャー映画と実験アニメの融合とも言うべき不可思議な味わいの作品になった。

 常識破りの作品らしく、この作品では、新人アニメーターを一般公募するという企画が立てられた。当時、高校1年生だった細田は、「素人を使うなんて無茶苦茶な企画だと思ったけれど、そういえば大林監督も自主制作から商業映画監督になった人だし、ちょっと変わった面白いフィルムになるだろう」(『キネマ旬報 2006年3月上旬号)と、中学3年の時に8ミリで自主制作したペーパーアニメを応募することにした。すると、さっそく制作にあたっている東映動画(現東映アニメーション)のプロデューサーから、上京して作画の打ち合わせに入りたいと連絡が来る。高1にして細田は、大林映画のアニメスタッフに採用されたわけだ。しかし、テストが迫っていたために都合がつかず、結局、細田の『少年ケニア』デビューは幻に終わってしまう。

 これだけなら、どうということはないが、細田と大林の奇縁には続きがある。金沢美術工芸大学在学中、学祭の実行委員長を務めていた細田は、〈大林宣彦ピアノ・リサイタル〉なる催しを企画する。曰く、「大林さんはご自身でピアノを弾かれたり、作曲されたりするということを知っていたし、『少年ケニア』で大林さんとご縁があると思いこんでた」(前掲)。

 そこで、大林に連絡を取るためにたどった伝手が、高校生の頃に『少年ケニア』で連絡してきた東映動画のプロデューサーだった。ところが、先方は細田がいよいよアニメーションの世界に入るために頼ってきたのだと思い込み、スタジオを紹介しようと申し出る。こうして細田東映動画へ籍を置くことになり、アニメーターとしてのキャリアを歩み始めることになる。大林宣彦と『少年ケニア』が、細田の運命を決定づけたと言っても過言ではあるまい。なお、〈大林宣彦ピアノ・リサイタル〉は細田のアニメ業界入りのため、実現しないまま終わった。

 

大林宣彦角川映画

 大林版『時かけ』は、角川映画と大林映画の時ならぬ結合がもたらした〈個人映画的大衆娯楽映画〉というバケモノ的様相を呈している。それゆえに、細田版は全く異なるアプローチを取ることで秀作となったが、では、どうやって大林版は生まれたのか。その秘密は、角川映画大林宣彦の関係を繙かねばならない。全ての始まりは、大林のこの言葉から始まった。

角川春樹さんよ、あなたが大林宣彦を使える時代がはやくきたらいいでしょうね。」

 1978年末、映画評論家の石上三登志が責任編集を務めた雑誌『季刊映画宝庫 NO.9』(1979年新年号)で行われた石上と大林による対談の席での発言である。後に角川映画を代表する監督として知られるようになる大林が、当時、角川映画を総指揮していた角川春樹に向けて、なぜこんな言葉を発したのか説明が必要だろう。2人には、〈日本映画界〉に登場したのが、ほぼ同時期だったという共通項がある。

 1976年、角川春樹は初プロデュース作『犬神家の一族』で角川映画を誕生させた。映画製作は角川文庫を売るためと言い切り、続けて製作した『人間の証明』『野性の証明』は、莫大な製作費をかけた派手な大作を、TVスポットと主題歌の合わせ技でメディアミックスを展開し、大量宣伝によって映画と文庫を売りつける手法は、旧来の日本映画界から、顰蹙を買うに充分だった。

 一方、1977年に『HOUSE』で商業映画監督としてデビューした大林宣彦もまた、映画人からは白い目で見られていた。個人映画の旗手として1960年代後半にアンダーグラウンド映画で注目を浴び、その後はCMディレクターとしてヒットメーカーになった大林は、商業映画にCMの方法論をそのまま持ちこんだ。古めかしく、退屈な日本映画にうんざりしていた若い世代からは熱狂的に支持されたものの、年長者たちは、映画以前のシロモノと批判した。

 角川映画と大林映画は同時期に日本映画界に参入し、こんなものは映画に非ずと難詰された点で共通するだけに、互いを意識しないはずがなかった。実際、角川春樹は、『HOUSE』を劇場に飛んで行って観たという。初期の角川映画は、大作志向が強かったこともあり、撮影所出身の市川崑佐藤純彌といったベテラン監督たちを起用して、角川映画と〈日本映画界〉の齟齬を埋めざるを得なかったが、本来は大林――そして後に角川映画に参入してくる相米慎二根岸吉太郎といった新世代の監督たちと組むことが、角川春樹の理想とする映画作りに近いはずだった。

 大林と角川春樹の出会いは、1975年に遡る。ATGが製作した横溝正史原作の『本陣殺人事件』に大林は音楽監督角川春樹は企画協力として関わっていた。監督は大林の盟友である高林陽一である。大林は、「この映画がひとつの契機となって角川映画の第一作『犬神家の一族』がスタートするのだが、この横溝正史映画の監督が同じ高林陽一君でなかったことを、ぼくはこの旧友のためにだけでなく無念な気持ちで受け止めた。『新進気鋭の独立映画作家としては、ずい分安定路線の地味な起用だなぁ』というのが当時のぼくの市川崑監督についての素直な感想である。」(『映画芸術』1994年冬号)と、始まったばかりの角川映画への印象を記している。だからこそ大林は、「角川春樹さんよ、あなたが大林宣彦を使える時代がはやくきたらいいでしょうね。」という挑発的な発言をしたのだ。

 

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『マルサの女』(第2回) 伊丹映画と幻影の撮影所

伊丹映画のエロス、原点はロマンポルノにあり

 伊丹映画と言えば、かつてはゴールデンタイムの映画番組では、ジブリ、『男はつらいよ』シリーズと並ぶ定番だった。特にフジテレビ系列の『ゴールデン洋画劇場』での放送が多かったと記憶するが、筆者は小学生の頃に『マルサの女』(87年)を初めてテレビで観て、伊丹映画の面白さに魅せられた。ただし、問題がひとつだけあった。伊丹映画はエロい! 今ならゴールデンタイムでの放送が憚られるほど、濃密な性描写が毎回付いてくるのである。

 『お葬式』(84年)の葬儀準備中に山崎努が愛人と抜け出して行う野外ファック、『タンポポ』(85年)の役所広司黒田福美の食を介した性描写、そして『マルサの女』は、山崎努が愛人との性交場面が強烈だ。行為の後、女は股にティッシュを挟んだまま立ち上がり、カメラは女の全裸の後ろ姿を捉えているが、尻の下に目をやると股の間からティッシュが見えているのが何とも艶めかしい。他にも政治家と電話しながら愛人の股間をまさぐる場面では、恍惚の表情を浮かべる女の顔を中心に見せたりと、小学生が見るには刺激が強すぎる描写の数々が伊丹映画の名物でもあった。したがって家族団らんの席で見ようものなら、当然気まずい雰囲気になる。

 それでも伊丹映画に一貫して性描写が毎回入ってきたのは、人間を描くためには、人間の二大欲求(食欲・性欲)を描くことが不可欠と考えたためだろう。実際、性描写と同じく、必ず食にまつわるシーンも印象的に登場する。食と性の描写に、伊丹自身が非常に興味を示していたことは、時としてそれらのシーンが本編から脱線して目立ちすぎることがあることからも窺えるが、性描写に関しては、伊丹の意図を支える技術が存在した。

  ここで伊丹映画のスタッフに注目してみたい。デビュー作『お葬式』は、製作会社ニュー・センチュリー・プロデューサーズ(以下NCP)のプロデューサー・岡田裕がスタッフ編成を行ったが、その直前に伊丹が出演した『家族ゲーム』(83年)を撮影した前田米造が監督作でも担当し、以来スケジュールが合わなかった2本(『タンポポ』『あげまん』)を除き、前田は伊丹映画の撮影を担い続けた。ここまでは、映画のスタッフリストを眺めれば分かることだが、NCPは日活出身の岡田らによって設立された制作者集団であり、亡くなるまで伊丹映画のプロデューサーを務めた細越省吾、全作の編集を手掛けた鈴木晄も日活出身である。彼らは共通して、かなりの数の日活ロマンポルノに携わった経歴を持っている。一般映画としてはかなり濃厚な伊丹映画の性描写は、伊丹の演出力と共に、それを支える技術者たちが居たから実現したものでもあったのだ。実際、前述の〈股間ティッシュ〉と全く同じ描写が、曽根中生監督のロマンポルノの傑作『わたしのSEX白書 絶頂度』(76年)にも登場する。

 

 伊丹映画は全作を東宝が配給したため、〈東宝映画〉というイメージが強いが、製作は伊丹が自身のプロダクションの全額出資で行った、言わば自主映画だ。初期作はスタジオにセットを作る余裕はなかったが、『あげまん』(90年)から遺作の『マルタイの女』(97年)まで、スタジオでの撮影は全て調布の日活撮影所で行われている。一見したところ、〈東宝の伊丹映画〉というイメージが今でも強いが、伊丹映画は日活ロマンポルノの流れを継承する存在でもあったのだ。

 

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『マルサの女』(第1回) 金と流行語と女

映画監督・伊丹十三

 伊丹映画と若い世代に言っても、伝わるかどうか心もとない。伊丹十三が亡くなってから20年が過ぎると、『あまちゃん』の夏ばっぱや『ひよっこ』の鈴子を演じる宮本信子の夫が伊丹十三だと説明した方が通りはいいかも知れない。

 伊丹映画は一貫して、ユニークな視点から〈日本人論〉を展開してきた。〈日本人と儀式〉を描いたデビュー作の『お葬式』(84年)に始まり、第2作の『タンポポ』(85年)は〈日本人と食〉の物語である。究極のラーメン作りに挑むヒロインと、彼女を叱咤激励するトラック運転手との仄かな恋が、ラーメンの香りと共に漂ってくる物語は、言ってしまえば『シェーン』(53年)の換骨奪胎なのだが、日本映画らしからぬカラッとしたエンターテインメントになっており、国内よりも海外で人気を集め、監督になる前は俳優として『北京の55日』(63年)などにも出演する国際俳優だった伊丹が、今度は監督として世界的に知られるようになった。

 

税金をめぐる実体験を映画に

 そんな伊丹の監督第3作かつ最高傑作の呼び声高いのが『マルサの女』(87年)である。儀式・食に続くテーマは〈日本人とお金〉。もっとも、お金をめぐる物語はさして珍しいわけではない。成り上がって金を稼いだり、財産を失ったり、ドラマの重要な小道具としてお金は使い古されてきた。だが、伊丹は意外な視点からお金を描くことにした。それが税金である。

 これは伊丹が自費を投じた『お葬式』が予想外の大ヒットをしたことから、大きな収益をもたらしたものの、ようやく成功を掴んで得た金を、税金と称して容赦なく奪い取っていく国家権力に伊丹が呆然としたことが企画の原点となった。伊丹曰く、「身も心もすりへらして、自分で金出して、自分でリスクしょって、大勢の人に有形無形の借りを作って、およそ筆舌に絶する苦労をして、やっとこさお客さんに見てもらって、そうやって稼いだ金をですね、まるで自分のものであるかのように六十五パーセント出しなさい、といって平然と持っていってしまう。」(『「マルサの女」日記』伊丹十三 著/文藝春秋

 『お葬式』が宮本信子の父の葬儀を体験したことから生まれたように、『マルサの女』は伊丹の税金をめぐる実体験から生まれたわけだが、常識的に考えて、税金を取り立てる側と、脱税する側の対決を描くなら、映画の主人公に相応しいのはアンチヒーローたる脱税側だろう。百戦錬磨の国税局と戦う市民を主人公にした方が、税金に苦労する観客も共感を覚えるに違いない。ところが伊丹は、税金を取られる側ではなく、取る側、つまり税務署側から描くことにした。何故なら、伊丹映画は常に〈日本人論〉でもあったからだ。税金という切り口で日本人の顔を見せるには、取り立てる側から描いた方が多面的に様々な顔が描けるからだ。それにあの手この手の信じ難いような脱税の手口は、現実離れしたものばかりで実に映画向きなのである。

 

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『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(第2回)たった一本の映画でその名を刻む伝説の映画監督になるには?

唯一無二の作品を撮ってしまった映画監督のその後

 企画開始時に22歳、公開時は25歳だった監督の山賀博之。8mmの自主制作アニメという実績のみで、製作費8億円の劇場用長編アニメーションを監督するという壮大なプロジェクトを終え、興行こそは大きく振るわなかったとはいえ、作品の評価も悪くはなく、この映画のために作られた製作会社GAINAXも存続することになったのだから、25歳の監督がこの先も長く活躍することを誰も信じて疑わなかったはずだが、山賀は映画が公開された翌々月には故郷の新潟に帰ってしまった。

 その後、アニメの脚本は書いているものの監督としての経歴は、TVアニメ『まほろまてぃっく』『アベノ橋魔法☆商店街』を2001年に監督したのみ。映画監督としての第2作は、20年近く前から予告されながら、未だ実現していない。

 

 これからプロのアニメーション監督としてキャリアをスタートさせるにあたり、これ以上ないほど大きな花火を打ち上げた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を撮った後、なぜ新作がないのか。「あまりにも今まで、あくせくと短期間の出世だけを考えて、セコセコと生きて来た自分というものに行き当たるわけです。要するに、僕が監督になることを決意してから『王立』に至るまでの日々ってのいうのは、自分で作ったプログラムを消化するだけの日々だったんですよ。」(『クイック・ジャパン VOL.18』太田出版)と山賀は自己解析するが、大学時代から「25歳までには劇場版の監督かテレビシリーズのチーフディレクターをやらなきゃならないと考えていました。しかし25歳で監督になれる時代じゃないわけですよ。『どうしたらなれるか』、ただそれだけです。そればっかり考えていました。」(『GAINAX INTERVIEWS』堀田純司GAINAX 著/講談社)と言うだけあって、本当に25歳で監督になってしまうと、そこで目的を達成してしまったことになる。しかも、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は、山賀博之の内面世界を隅々まで使い切った作品である。

 

幻の山賀監督第2作『蒼きウル』とは?

 脚本家の新藤兼人は「誰でも1本は傑作シナリオが書ける。それは自分の体験を書くことだ」と言ったが、山賀も、それまでほとんど書いたことがないのに『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の脚本は書けてしまったという。

 映画が完成した後、山賀の映画監督第2作が動き出したのは90年代後半——『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象を起こした後である。『蒼きウル』と題された新企画は『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の50年後を舞台にした戦闘機の空中アクションを盛り込んだ続編的な構造を持つもので、元々は『エヴァ』の前に、庵野が監督するための新企画として山賀が新潟から呼び戻されてプロデューサー兼脚本担当として考えたものだった。既に原画作業まで入っていたが、スポンサーの都合で続行が不可能となり、製作中止となった。『エヴァ』がヒットした後、再始動するにあたって監督は山賀へと交代し、内容も大幅に見直されることになったが、数年ごとに今度こそ始動の報が流れるが進展の様子はない。最近では、2017年6月23日、庵野が設立した製作会社カラーから古巣のガイナックスへの未払金訴訟について、東京地裁立川支部で判決が出た際、ガイナックスが出したコメントの中に、「この六月からは劇場用アニメ大作『蒼きウル 英語題名 Uru in Blue』の制作を開始致しました。」とあり、何度目かの再始動が宣言された。

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『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(第1回) なぜ24歳の若者が劇場アニメーションの監督になることができたのか?

24歳の若者が製作費8億円の劇場用アニメの監督に

 映画監督になる相応しい年齢はあるだろうか? 日本を例にとれば、映画黄金期の1950年代前後は、撮影所の時代である。大手映画会社の撮影所で助監督として数年間実績を積み重ねて、監督になる。年功序列なので、よほど突出した才能がないかぎり、早くても30代でようやく監督になることができる。もっとも、こんなものはシステム上の都合にすぎない。松竹大船撮影所の助監督だった大島渚は、助監督なんて3年やれば充分だと、脚本や映画批評などで頭角を現し、27歳で監督に抜擢されている。戦前の映画黎明期に活躍した日本映画史に名を残す監督たちがデビューした年齢を見ると、山中貞雄(23歳)、溝口健二(24歳)、小津安二郎(23歳)、マキノ雅弘(18歳)と若い。海外に目を向けてもスティーブン・スピルバーグ(28歳)、ジェームズ・キャメロン(27歳)、クリストファー・ノーラン(28歳)と、20代後半で商業映画の監督になることは珍しくない。

 『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を監督した山賀博之が製作開始段階で24歳だったのは、映画史を見渡せば若すぎるわけではない。しかし、製作費8億円の劇場用アニメーションを監督実績のない若者に託すのは、今でも大胆な試みである。なぜ、こんなことが可能だったのか。

 

自主制作アニメの頂点『DAICON Ⅳ』

 『君の名は。』(16年)を監督した新海誠は、デビュー作『ほしのこえ』(02年)で監督、脚本のみならず、作画、美術、編集、果ては主人公の声まで(後に声優版も製作)1人でやってのけ、デジタル時代の新たな映画作りの可能性を提示した。とはいえ、これ以降、商業枠での長編アニメーションを製作するようになると、1人で全てを担うことは当然難しくなり、作画監督を招くなど通常のアニメーション製作と同じ方法が取られるようになった。『君の名は。』ではジブリ出身のアニメーター・安藤雅司がキャラクター・デザイン、作画監督を担当しており、他にも同じくジブリ出身の作画担当・廣田俊輔、Production I.G黄瀬和哉など錚々たるアニメーターを集めており、次回作でもこれだけのメンバーを集められるかどうかという声も出ている。ことほどさように、劇場用長編アニメの場合は、監督が優れた能力を持ち、魅力的なストーリーを書いたところで、それを描くアニメーター、美術監督などスタッフを揃えられるかどうかにかかっている。

 その点で山賀博之は、『ほしのこえ』に当たる自主映画の実績と、優秀なアニメーターたちを既に抱えていた。大阪芸術大学映像計画学科の同級生だった庵野秀明赤井孝美は在学中から突出した才能を見せていたが、岡田斗司夫らから依頼されて製作したSF大会のオープニングアニメ『DAICON Ⅲ』(81年)が話題を呼び、これをきっかけテレビの『超時空要塞マクロス』に庵野と山賀が参加するなど、プロの世界に足を踏み入れる原点となった。そこで得たノウハウは『DAICON Ⅳ』(83年)へと投入され、前作を遥かに上回るクオリティの、まさに玄人はだしの短編アニメを完成させた。

 そして、この次がもう『王立宇宙軍 オネアミスの翼』である。8mmの自主アニメから35mmの商業アニメへの進出は、どのように成されたのか。何の苦労もなく才能を見込まれて作ってしまったように見えるが、実際は根回しと慎重な足取りによってたどり着いたものだった。

 

マチュアからプロへの道のり

 究極の自主制作アニメ『DAICON Ⅳ』完成させてしまうと、アマチュアでやるべきことはなくなってしまう。同時にモラトリアム期間も終わりを告げ、それぞれ就職などを考え出す。庵野は『風の谷のナウシカ』(84年)の原画スタッフとして宮﨑駿のもとへ向かったが、山賀はこれまで自主制作でアニメ、特撮ものを製作してきたDAICON FILMの次なる展開として、オリジナル・ビデオアニメ(OVA)の製作を提案した。それがガンダムのプラモデルにしか登場しないキャラクターを主人公にした番外編だった。テレビ版の本家ガンダムとは別にオリジナルのアナザーストーリーを作ることができるという、当時としては画期的な企画だったが、バンダイビジュアルに持ち込んだものの、この企画は流れてしまう。

 この時、企画を相談されたバンダイビジュアルの渡辺繁の証言では、「モビルスーツバリエーション」というプラモデルシリーズを前に「『このシリーズのプロモーションアニメを、DAICON FILMというアマチュア集団につくらせてみないか』という企画を、岡田(斗司夫)さんは提案したんです。(…)監督としてはDAICON4のオープニングアニメを担当した山賀博之という男がいる、『風の谷のナウシカ』で原画をやった庵野秀明という男がいる」(『GAINAX INTERVIEWS』堀田純司GAINAX 著/講談社)と売り込まれたという。『DAICON Ⅳ』の監督と、巨神兵を描いた庵野という2枚看板でプッシュされたわけだ。

 ここで渡辺との関係ができたことから、以降も企画が持ち込まれるようになるが、時あたかも世界初のOVA『ダロス』(83年)がバンダイから発売され、映画、テレビ以外のアニメの可能性が生まれていた。また1984年は、アニメーション史上における重要作『風の谷のナウシカ』、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(84年)、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』(84年)が公開されたことも、企画を後押しした。

 こうして『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(当初は『王立宇宙軍 リイクニの翼』として始動)は、バンダイが映像事業への参入を考えていたこともあり、製作費4千万円のOVAとして動き始める。そしてDAICON FILMを発展的に解消し、新たにアニメーション製作のための新会社として設立されたのがGAINAXである。

 

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『タンポポ』(第2回) 伊丹映画のハリウッド進出顛末記

アメリカでヒットした異色の日本映画

 伊丹十三のデビュー作から3作目までの絶好調ぶりを、『キネマ旬報』のベストテンのランキングと、配給収入の数字から見てみると以下のとおり。

 

『お葬式』(『キネマ旬報』ベストテン1位/配給収入12億円)

タンポポ』(『キネマ旬報』ベストテン11位/配給収入6億円)

マルサの女』(『キネマ旬報』ベストテン1位/配給収入12億5千万円) 

 こうして並べると、『お葬式』(84年)と『マルサの女』(87年)に比べれば、『タンポポ』(85年)は評価も興行も一段落ちるような印象を持ってしまうが、他の2本の数字が良すぎるのでそう見えるだけで、評価、興行も悪い数字ではない。伊丹の趣味が強く出ている分が数字になって表れたということだろう。

 だが、これは日本での数字でしかない。『タンポポ』は他の伊丹映画と全く違う独自の道を歩んだ作品だった。アメリカで予想外のヒットを見せたのだ。1986年12月にニューヨークのジャパン・ソサエティーでの初上映を皮切りに、その後も日本映画特集の1本として上映されると話題を集め、1987年に一般公開されると200万ドルの興行収入を記録した。実際、半年以上にわたって『バラエティ』誌の興行欄の50位圏内にとどまり続けるロングランヒットとなり、その年のアメリカで公開された外国映画の興行成績では5位にランクインしたほど。なお、この時代のアメリカでヒットした日本映画は『影武者』(興行収入400万ドル)、『乱』(730万ドル)などがある。

 これ以前からも日本映画が海外で公開されることはあった。例えば第1作の『ゴジラ』(54年)は、特撮の出来が良いことからアメリカの映画会社に買い取られ、追加撮影、再編集を行って〈アメリカ映画〉へと作り変えられた。アルフレッド・ヒッチコック監督の『裏窓』(54年)で妻を殺した疑いを隣人からかけられる男を演じたレイモンド・バー演じる新聞記者が、日本に立ち寄った際にゴジラの上陸に遭遇するという内容に変わり、あたかも『ゴジラ』の主要なシーンにバーが立ち会っているかのように編集で作り変えられた。日本人が主役では売れず、反戦のメッセージも邪魔だったからだ。こうした誤魔化しが功を奏し、『Godzilla, King of the Monsters!』(56年)の題で公開され、50万ドルを稼ぎ出した。日本でも『怪獣王ゴジラ』の邦題で逆輸入されて〈外国映画〉として公開されている。

 また、これまでも溝口健二小津安二郎といった海外でもよく知られる日本人監督たちの作品が公開されることはあったが、都市のアートシアターでの上映が中心だった。それが『タンポポ』は一般劇場で公開された〈外国映画〉としてヒットし、伊丹の名はハリウッドからも注目を集めるようになった。アートフィルムの監督ではなく、ハリウッドで商業映画を撮り得る存在としてクローズアップされたのだ。この時期のハリウッドは、オランダから進出してきたポール・ヴァーホーヴェンが『ロボコップ』(87年)を撮ってヒットメーカーに躍り出ていた。伊丹は当時の日本映画でハリウッドに最も近い映画監督だった。

 

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『タンポポ』(第1回)最も作りたかった映画を撮るために

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伊丹十三がいちばん作りたかった映画

 初監督作『お葬式』(84年)で、一躍映画監督として脚光を集めた伊丹十三。それまで『北京の55日』(63年)などの海外の大作に出演する国際俳優、エッセイスト、テレビタレントとして知られてきたが、日本では80年代前半、『細雪』(83年)、『家族ゲーム』(83年)に出演して助演男優賞を受賞するなど、俳優としての評価が高まり始めた矢先の映画監督への〈転職〉だった。

 『お葬式』が大ヒットし、各映画賞を総ナメにしたことから翌年の監督第2作『タンポポ』(85年)へと繋がり、そして第3作『マルサの女』(87年)で映画監督・伊丹十三の名を不動のものに。矢継ぎ早に特異な視点から話題作を発表し、停滞する日本映画のスター監督となったものの、映画評論家からの評価は『マルサの女』をピークに、それ以降の作品は低くなる一方だった。逆に興行成績はどんどん前作を上回っていくので、伊丹は映画をヒットさせることに価値を見出してゆく。製作費全額を自費で賄う伊丹映画の製作方式は、自由な創作を保証される代わりに、ヒットしなければ次回作を作ることも危うくなる。安全パイの「女シリーズ」が連発された晩年の『スーパーの女』(96年)、『マルタイの女』(97年)は、ヒットメーカーであり続けなければならないことに自縛されていたのではないかと思わせるフシがあった。なお、『スーパーの女』は伊丹映画の興行記録を塗り替えるヒットとなったが、遺作『マルタイの女』は女シリーズとしては唯一の不発に終わっている。

 そんな伊丹が、全10本の監督作のうち、ヒットさせることを考えずに、最も自由に自分のやりたいことだけを詰めこんで作った唯一の作品が『タンポポ』だ。その理由は、『お葬式』より前に遡る。 

幻の伊丹映画たち

 伊丹の商業映画監督デビュー作には、『お葬式』より前から数本の企画が存在していた。そのひとつが、1979年から翌年にかけてマスコミで話題となった「イエスの方舟事件」。千石イエスが主催する団体の謎の集団生活に、マスコミはカルト宗教と決めつけ、千石の逮捕状までが出された。結局は社会や家庭から居場所を奪われた者たちが寄り添って共同生活を行う場でしかなく、千石は不起訴となり、過熱していたマスコミ報道も沈静化。再び彼らは共同生活へと戻っていった。この騒動に伊丹は興味を持ち、自らの監督・主演で映画化することを企画し、脚本家・池端俊策に脚本執筆を依頼。九州に拠点を移していた千石のもとで伊丹らは長期にわたって取材を行ったが、ある時、何かのきっかけで伊丹と千石がトラブルとなり、伊丹が興味を失ったことから企画は中止となった。

 なお、取材に同行した脚本家の池端は、その後、ビートたけし主演のテレビドラマ『昭和四十六年、大久保清の犯罪』(83年)が高視聴率と高い評価を得たことから、たけし主演の実録ドラマとして、このときの取材を活かして、千石イエスを主役にした『イエスの方舟』(85年)の脚本を書いている。

 もう1本、伊丹が映画化を考えていたのが種村季弘原作の『食物漫遊記』。これは単なる食のエッセイではなく、食をめぐる何とも人を食ったようなバカバカしい挿話が次々繰り出される。当時、伊丹から構想を明かされたプロデューサー・岡田裕が語るところによると「主演は松田優作で、映画館の中で美味そうな食物の映画を見ながら彼がおせんに焼きイカを食べていると、段々身体が小さく縮んで小人になってしまう。その小人がどういうわけか大きな食用の氷のかたまりの中にまぎれ込み、ベルトコンベアーに乗っかって砕氷場にもっていかれぐしゃっとくだかれ、そして氷イチゴのカップの中にまぎれこむ、という風な話」(『シナリオ』1984年11月号)というものだった。岡田が実現は難しいだろうと告げると、次に伊丹が持ってきたのが『別れの日』という脚本で、内容はそのままに後に改題されて『お葬式』となった。

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〈俳優・坂本龍一〉の軌跡 (第2回)

幻の主演映画『ハリウッド・ゼン』

 『ラストエンペラー』以降の坂本龍一の俳優活動は、現段階では『ニューローズホテル』(98年)のみである。この作品で坂本は、銀縁眼鏡で冷徹な大企業の役員を演じているが、顔出し程度の役で特筆するほどではない。それよりも、この前に幻の出演作——それも、『戦メリ』『ラストエンペラー』を超えて代表作になっていたかも知れない主演作が存在した。それが大島渚監督の『ハリウッド・ゼン』である。

 フランス映画『マックス、モン・アムール』(86年)以来、新作が途絶えていた大島は、『戦メリ』のプロデューサー、ジェレミー・トーマスに新作の企画として、サイレント映画時代にハリウッドで大スターとなった日本人、早川雪洲を描く企画を提案した。

 もっとも、もとを辿れば、マックス、モン・アムール』をパリで撮影中の大島にパリ在住の日本人ジャーナリスト・平井ゆかりが取材で対面した後、自ら書いた脚本を持参したのがきっかけである。平井が書いてきたのは、1923年にパリを訪れた大杉栄アナーキストらとの会談を重ね、やがて逮捕されて国外退去処分となった実話をもとにした企画で、大島は興味を示した。なお、この1923年に日本へ強制送還された後に大杉は、前回記した関東大震災の騒乱に乗じて憲兵大尉の甘粕正彦に虐殺されることになる。

 平井が次に提案したのが早川雪洲の企画だった。大島はこの企画にも乗って、平井に脚本を書かせた。大島が改訂を指示するなど、しばらく脚本作りにかかっていたようだが、ある時、大島は単独で同じく早川雪洲を主人公にした異なる視点からの脚本を執筆することにした。言わば、若い映画志望者の企画を奪ったようなものだが、なんらかの形で納得させたのだろう。これ以前にも大島は『愛のコリーダ』(76年)の時も、旧知の脚本家・映画監督である深尾道典に脚本を書かせたが、ある時、全て引き取って単独で脚本を書いた。それが後に深尾から批判されたこともあったが、全てを一から作り出す映画監督がいる一方で、他人の才能から企画のきっかけを掴む監督もいる。『愛のコリーダ』以降の大島は、自分が作りたい映画というよりも、海外のマーケットを意識したエキゾチックな企画を好むようになっていく。

 大島の単独執筆で進み始めた『ハリウッド・ゼン』だが、脚本作りは難航する。大島によれば「困ったことに、調べれば調べるほど考えれば考えるほど、セッシュウは魅力あるキャラクターとして浮かび上がって来ないのである。たしかに明治の日本人男性として、現在の日本人男性などよりはるかに強い精神性、肉体的人格を持っていたことは事実である。しかし、それは逆にいえばマッチョということであり、その女性関係などはとうてい現代の女性の容認できるところではない。」(『戦後50年映画100年』大島渚 著/風媒社)

 こうして、当初は早川雪洲のハリウッドでの成功を描く企画が、やがて彼の妻で女優の青木ツルを中心に、雪洲を追い抜いていったルドルフ・ヴァレンチノをめぐる内容へと変わっていった。脚本が完成し、キャスティングの検討が始まると、雪洲役を坂本龍一にと最初に言い出したのは、ジェレミー・トーマスだった。大島も最初から坂本を想定していたが、プロデューサーが言い出すのを待っていたという。妻・青木ツルに相応しい日系女優が見つからず、『ラストエンペラー』で皇后役だった中国人女優のジョーン・チェンが選ばれた。そしてヴァレンチノ役はジョニー・デップを始め幾つも候補が挙がった末にアントニオ・バンデラスが決まった。

 製作費70億円、1991年11月4日クランクイン、翌年1月末クランクアップ予定の大島映画としては空前の大作である。坂本は10月から開始予定だったワールドツアーを延期して雪洲役に打ち込むと語り、カナダのトロントにロケ地も決定するなど、着々と撮影開始に向けて進んでいた。ところが、セットの建込みも始まり、あと数週間でカメラが回ろうとする中、突如として製作が中断した。ジェレミー・トーマスが行っていた製作費の調達に見込みが立たなかったからだ。当時、彼はベルトルッチの『シェルタリング・スカイ(90)の興行が不発に終わり、苦境に立たされていた。結局、製作は一時中断し、半年後の1992年5月下旬に撮影開始が延長されることになっていたが、これもまた延期となり、同じくベルトルッチの『リトル・ブッダ(93)がヒットすれば今度こそ『ハリウッド・ゼン』も――という望みも虚しく、幻の企画となって終わった。

 だが、撮影寸前まで進んだだけに、〈俳優・坂本龍一〉がこの作品でどう映されようとしていたかを窺い知ることができるヒントを大島は残している。例えば1992年春には、こう発言している。「彼(坂本龍一)には男の色気があるし、どんなときもサマになる人間的な華やかさがある。『戦メリ』から10年、英語も完璧になり一段とスケールアップした坂本さんなら雪洲を演じきれる」(『キネマ旬報19924月上旬号)

 そして、音楽も担当することになっていた坂本は「今回の映画ではジャズの時代の1920年代をどう表現するか自分も楽しみにしており、『戦メリ』以上の作品にしたい」(前掲書)と抱負を語っている。『ハリウッド・ゼン』の製作中止は、俳優としての坂本龍一の新たな飛躍と、音楽家としての坂本龍一のキャリアに加わっていたかも知れない可能性が無くなったという意味でも惜しまれる。

 

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〈俳優・坂本龍一〉の軌跡 (第1回)

 俳優・坂本龍一の誕生

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 坂本龍一の40年に及ぶキャリアの中でも、特筆すべき項目のひとつが、『ラストエンペラー』によって第60回アカデミー賞作曲賞を受賞したことだろう。

 エンニオ・モリコーネをはじめとする映画音楽の巨匠たちが、監督のベルナルド・ベルトルッチへ「オレにやらせろ」とアピールするなかで、坂本が音楽も手がけることが決まったのは、撮影終了から半年後。ベルトルッチは当初、坂本を〈俳優〉として起用しただけだった。

 俳優・坂本龍一の誕生は、今やクリスマスのスタンダードナンバーになったMerry Christmas Mr.Lawrenceを生んだ大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』(83年)が原点である。坂本が演じた捕虜収容所所長のヨノイと、英国軍陸軍少佐ジャック・セリアズ(デヴィッド・ボウイ)との関係を描いた秀作だが、この役は最初から坂本龍一に決まっていたわけではなく――というより、ビートたけしデヴィッド・ボウイも含めて、キャスティングが二転三転した末に決定したものだった。

 最初の配役では、ロバート・レッドフォード滝田栄緒形拳が予定されたが、レッドフォードは大島の監督作ということで興味を示したものの、脚本を読んでアート・フィルムの要素が強いため断ってきた。結果、ハリウッドスター出演の大作を予定していたはずが雲行きは怪しくなり、製作費の調達も停滞したことから製作開始が遅れ、滝田、緒形も予定が合わなくなってしまう。レッドフォードに代わってデヴィッド・ボウイの出演が決まり、日本人俳優は、勝新太郎若山富三郎菅原文太沢田研二三浦友和らが候補となって次々とオファーしたが決まらず(沢田研二勝新太郎でも見てみたかった!)、最終的に演技では未知数の坂本龍一ビートたけしという、同時代の人気ミュージシャンと漫才師という意外な組み合わせとなった。

 これは奇をてらったものではなく、大島渚は初期作のころから「一に素人、二に歌うたい、三、四がなくて五に映画スター、六、七、八、九となくて十に新劇」と公言していた。つまり、映画の主役なんてものは演技の基礎を習得した舞台俳優や演技派ではなく、演技経験の全くない素人=新人を抜擢するか、歌手が良い。それがダメなら誰もが知っているスター俳優を起用すべきだというわけだ。実際、大島の映画は素人、新人俳優、歌手が主役になることが多い。遺作となった『御法度』(99年)も、当初は木村拓哉を主役に希望していたが、最終的にはまだ芸能界に入っていなかった松田優作の遺児、松田龍平を発掘し、これがデビュー作となった。まさに〈スターか素人〉である。その意味で、デヴィッド・ボウイ坂本龍一ビートたけしという組み合わせは、結果的に大島好みの並びとなったわけだ。

 『戦メリ』(この略称は大島渚の要望で使われることになった)の音楽は、坂本への出演交渉の席で、坂本から言い出した。大島と坂本はこのときが初対面であり、当時の坂本に映画音楽の経験はなかったが、大島は即座にその申し出を了承した。そして撮影が終わり、それまで撮ってきたものを東京に持ち帰って現像した頃、ちょうどベルナルド・ベルトルッチが来日した。5時間16分の大作『1900年』(76年)が6年遅れで日本公開されることになったためのキャンペーンである。『戦メリ』のラッシュを観たベルトルッチは、ボウイが坂本を抱き寄せるカットを、映画史上最も美しいラブシーンだと称賛したという。だが、この段階では、まだベルトルッチと坂本は出会っていない。やがて、『戦メリ』のプロデューサー、ジェレミー・トーマスが『ラストエンペラー』も手がけることになり、両者の距離が近づくことになる。その一方で、『戦メリ』と『ラストエンペラー』の間に、1本の主演映画が坂本にオファーされていた。

 1983年5月28日に『戦メリ』は公開されたが、それから1月も経たない6月16日、フランシス・F・コッポラ製作総指揮、製作・山本又一朗ポール・シュレイダー脚本・監督による『MISHIMA -11月25日・快晴-』(仮題)の製作発表が行われた。三島由紀夫の自決した日を軸にその半生と代表作を組み合わせて描く国際大作である。日本人俳優を起用した日本語の映画ということで、国内の注目も高かった。最初に三島役へオファーされた高倉健が周囲からの反対で断ると、次に名前が挙がったのが他ならぬ坂本龍一である。もちろん、これは公開中の『戦メリ』がヒットしたことによる反応だろうが、インテリジェンスとナルシズムを併せ持つ存在を演じるには、既存の俳優では難しいという判断もあったのではないか。

 坂本は“ある理由”で断ったが、その後、45歳で自決した三島を演じる日本人俳優を探すのは困難を極めた。無名の新人を含めて候補は50人にも達し、山本寛斎、永島敏行、小林薫らの名も挙がった。最終的に三島役へ決まったのは、奇しくも『戦メリ』で最初に配役されていた緒形拳だった。なお、三島の遺族からのクレームなどを理由に、この作品の日本での劇場公開は見送られた。 

 

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