『時をかける少女』をめぐる映画監督たち

細田守大林宣彦の奇縁

 今のところ9回にわたって映像化(そのうち映画は4回)されてきた『時をかける少女』だが、最初の映画化となった大林版『時かけ』(83)が与えた影響は絶大である。大きすぎると言っていい。実際、細田守版は、いかに大林版からの呪縛から逃れるかが、ひとつのテーマだった。

 細田と大林には意外な縁がある。細田がプロのアニメーションの世界に足を踏み入れるきっかけとなったのが、『少年ケニア』(84)――角川映画が『幻魔大戦』(83)に続いて製作した劇場アニメーションである。監督は大林、主演声優は原田知世高柳良一という前年に大ヒットした『時かけ』の監督・主演コンビだ。

 劇場アニメーションに実写畑の監督が参加すると、往々にして監修的な立ち位置になりがちだが、大林は細部まで自身の意図を反映させたことで、『少年ケニア』は良くも悪くも語り継がれる作品となった。「アニメーションに関するあらゆる実験を試みました。線画だけの表現。色のコマ塗り。アニメの画面に実写の雨が降る。描かれたアニメにオプチカルをかけて、ソラリゼーションを起こさせる。実写の人物がアニメの中を歩く」(『4/9秒の言葉 4/9秒の暗闇+5/9秒の映像=映画』大林宣彦 著/創拓社)と大林が語るように、メジャー映画と実験アニメの融合とも言うべき不可思議な味わいの作品になった。

 常識破りの作品らしく、この作品では、新人アニメーターを一般公募するという企画が立てられた。当時、高校1年生だった細田は、「素人を使うなんて無茶苦茶な企画だと思ったけれど、そういえば大林監督も自主制作から商業映画監督になった人だし、ちょっと変わった面白いフィルムになるだろう」(『キネマ旬報 2006年3月上旬号)と、中学3年の時に8ミリで自主制作したペーパーアニメを応募することにした。すると、さっそく制作にあたっている東映動画(現東映アニメーション)のプロデューサーから、上京して作画の打ち合わせに入りたいと連絡が来る。高1にして細田は、大林映画のアニメスタッフに採用されたわけだ。しかし、テストが迫っていたために都合がつかず、結局、細田の『少年ケニア』デビューは幻に終わってしまう。

 これだけなら、どうということはないが、細田と大林の奇縁には続きがある。金沢美術工芸大学在学中、学祭の実行委員長を務めていた細田は、〈大林宣彦ピアノ・リサイタル〉なる催しを企画する。曰く、「大林さんはご自身でピアノを弾かれたり、作曲されたりするということを知っていたし、『少年ケニア』で大林さんとご縁があると思いこんでた」(前掲)。

 そこで、大林に連絡を取るためにたどった伝手が、高校生の頃に『少年ケニア』で連絡してきた東映動画のプロデューサーだった。ところが、先方は細田がいよいよアニメーションの世界に入るために頼ってきたのだと思い込み、スタジオを紹介しようと申し出る。こうして細田東映動画へ籍を置くことになり、アニメーターとしてのキャリアを歩み始めることになる。大林宣彦と『少年ケニア』が、細田の運命を決定づけたと言っても過言ではあるまい。なお、〈大林宣彦ピアノ・リサイタル〉は細田のアニメ業界入りのため、実現しないまま終わった。

 

大林宣彦角川映画

 大林版『時かけ』は、角川映画と大林映画の時ならぬ結合がもたらした〈個人映画的大衆娯楽映画〉というバケモノ的様相を呈している。それゆえに、細田版は全く異なるアプローチを取ることで秀作となったが、では、どうやって大林版は生まれたのか。その秘密は、角川映画大林宣彦の関係を繙かねばならない。全ての始まりは、大林のこの言葉から始まった。

角川春樹さんよ、あなたが大林宣彦を使える時代がはやくきたらいいでしょうね。」

 1978年末、映画評論家の石上三登志が責任編集を務めた雑誌『季刊映画宝庫 NO.9』(1979年新年号)で行われた石上と大林による対談の席での発言である。後に角川映画を代表する監督として知られるようになる大林が、当時、角川映画を総指揮していた角川春樹に向けて、なぜこんな言葉を発したのか説明が必要だろう。2人には、〈日本映画界〉に登場したのが、ほぼ同時期だったという共通項がある。

 1976年、角川春樹は初プロデュース作『犬神家の一族』で角川映画を誕生させた。映画製作は角川文庫を売るためと言い切り、続けて製作した『人間の証明』『野性の証明』は、莫大な製作費をかけた派手な大作を、TVスポットと主題歌の合わせ技でメディアミックスを展開し、大量宣伝によって映画と文庫を売りつける手法は、旧来の日本映画界から、顰蹙を買うに充分だった。

 一方、1977年に『HOUSE』で商業映画監督としてデビューした大林宣彦もまた、映画人からは白い目で見られていた。個人映画の旗手として1960年代後半にアンダーグラウンド映画で注目を浴び、その後はCMディレクターとしてヒットメーカーになった大林は、商業映画にCMの方法論をそのまま持ちこんだ。古めかしく、退屈な日本映画にうんざりしていた若い世代からは熱狂的に支持されたものの、年長者たちは、映画以前のシロモノと批判した。

 角川映画と大林映画は同時期に日本映画界に参入し、こんなものは映画に非ずと難詰された点で共通するだけに、互いを意識しないはずがなかった。実際、角川春樹は、『HOUSE』を劇場に飛んで行って観たという。初期の角川映画は、大作志向が強かったこともあり、撮影所出身の市川崑佐藤純彌といったベテラン監督たちを起用して、角川映画と〈日本映画界〉の齟齬を埋めざるを得なかったが、本来は大林――そして後に角川映画に参入してくる相米慎二根岸吉太郎といった新世代の監督たちと組むことが、角川春樹の理想とする映画作りに近いはずだった。

 大林と角川春樹の出会いは、1975年に遡る。ATGが製作した横溝正史原作の『本陣殺人事件』に大林は音楽監督角川春樹は企画協力として関わっていた。監督は大林の盟友である高林陽一である。大林は、「この映画がひとつの契機となって角川映画の第一作『犬神家の一族』がスタートするのだが、この横溝正史映画の監督が同じ高林陽一君でなかったことを、ぼくはこの旧友のためにだけでなく無念な気持ちで受け止めた。『新進気鋭の独立映画作家としては、ずい分安定路線の地味な起用だなぁ』というのが当時のぼくの市川崑監督についての素直な感想である。」(『映画芸術』1994年冬号)と、始まったばかりの角川映画への印象を記している。だからこそ大林は、「角川春樹さんよ、あなたが大林宣彦を使える時代がはやくきたらいいでしょうね。」という挑発的な発言をしたのだ。

 

細田版『時かけ』と『金田一耕助の冒険』の共通点

www.youtube.com

 そして1979年、遂に角川映画と大林がタッグを組む時がやってきた。最初の作品は、『犬神家の一族』の大ヒット以来、各社で続々と映画化され、テレビドラマも高視聴率を記録していた横溝正史原作の『金田一耕助の冒険』である。1979年は映画だけでも、『金田一耕助の冒険』以外に、『悪魔が来りて笛を吹く』(東映)、『病院坂の首縊りの家』(東宝)が製作され、横溝ブームのピークを迎えていた感がある。

 したがって、〈高林陽一に『犬神家の一族』の監督を〉と大林が夢見た時と違い、もはや金田一映画を撮るのは、斬新な試みでも何でもなかった。むしろ作られすぎて、またかという食傷気味の反応すらあった。そこで角川春樹プロデューサーは、この映画を金田一映画のみならず、批判の多い角川映画のパロディまでも含んだ〈日本初の本格的パロディ映画〉にしてしまった。また脚本とは別に、ダイアローグ・ライターとして、つかこうへいが起用されている。

 大林×つかこうへいという組み合わせは今思ってもかなり乱暴だが、「最初の打ち合わせでも、金田一自身が事件を本当には何ら解決していないという気まずさを前面に出してみようとか、『ヨシ!わかった』の迷セリフで従来の金田一シリーズに欠かせなかった等々力警部に、もっと“敵”としての金田一に対する嫌悪感を出させようというアイデアが出されている」(『週刊明星』1979年4月22日)と、製作発表の段階で破天荒な作品になる予感にあふれているが、完成した映画は更にハチャメチャというか、収集がつかなくなっており、数ある映像化された横溝正史作品の中でも、今に至るまで評価が定まっていない。

 それでも、つかこうへいらしい台詞回しが随所に取り入れられたこともあり、固定化された金田一のイメージを壊そうとする意欲があふれた作品になっている。ダイアローグライターとして、つかの参加がどの程度作品に変化をもたらしたかは、つかの参加前後の脚本を比較してみれば明らかである。脚本の第二稿では事件が終わった後、残された謎について話題が出ると、金田一は、「芸術と言うものが、全て憎かったんだな。きっと」「芸術とは、全てを美化するものだよ。ハハハ……」と言うだけだが、そこにつかの筆が入ると、こうなる。

 

 金田一「(うらみがましく泣きベソをかいて)だいたい事件ってのは一から一〇までキッチリ納まるところに納まるってもんじゃないですよ、現実には。どうしたって矛盾があとに残るもんなんですよ。それをワンパターンっていわれりゃ立つ瀬がありませんよ。日本の犯罪ってのはどうしたって家族制度や血の問題がからんできちゃうんだ。それは日本の貧しさなんです。等々力さん、探偵ってのは一つの事件に対して怒りや憤りをもっちゃいけないものなんですよ。ひとつの事件からどう拡がっていくのだろう、そしてこの一つの殺人がもう一つ殺人を生むんじゃないかしら、そうこう考えることが楽しいんでしよね。私だって事件の途中で犯人を予測できるんだ。でもね、でもむやみに阻止すべきじゃないって気がするんですよ」

 

金田一耕助の冒険』脚本より

 

 饒舌に独白を続けるという、いかにもつかこうへいらしい台詞に書き換えられているが、舞台を現代に設定し、片岡千恵蔵が演じた初代金田一耕助よりも更に前に作られていたという三船敏郎が演じる〈真の初代金田一〉を登場させるなど、オリジナルへの目配せをしつつ解体する構造は、細田版『時をかける少女』に通じるものがある。細田版『時かけ』は大林版『時かけ』と対比されることが多いが、むしろ『金田一耕助の冒険』にこそ、大林宣彦細田守に共通する機知に富んだ軌跡が刻まれていると言えるのではないか。

 

それぞれの『時かけ』リメイク構想

www.youtube.com


 大林宣彦が映画監督として評価を確立したのは、故郷の尾道を舞台にした『転校生』(82)だが、クランクイン直前にスポンサーのサンリオが降りたことで製作中止の危機に見舞われる。大林は、その前に『金田一耕助の冒険』、『ねらわれた学園』(81)を角川映画で撮っていたことから、角川春樹に救けを求めた。大林はその時の光景をこう述懐する。「『転校生』を自ら製作できないことを彼がどれほどくやしがったか。『ウチの本ではないからなァ!』と彼は天を仰いで慨嘆したものだ」(『映画芸術』1994年冬号)。角川映画は自社の文庫本を売るために映画を作るのがタテマエだった。『転校生』の原作は当時、旺文社から発売されており、角川映画が手出しできなかったのだ。その復讐戦となったのが、翌年、尾道で製作された角川映画時をかける少女』である。

 それから20数年を経て、角川映画で〈転校生〉が作られた。『転校生 さよならあなた』(07)は、大林にとって『彼のオートバイ、彼女の島』(86)以来、約20年ぶりの角川映画である。もっとも、1992年に角川春樹と大林は「ある恐竜映画の演出依頼の件」(『映画芸術』)で会ったという。時期的にも『REX 恐竜物語』(93)と見て間違いないだろうが、『全てがここから始まる 角川グループは何をめざすか』(佐藤吉之輔 著/角川グループホールディングス)によれば、「カナダでの製作をめざした『恐竜物語』もおよそ七億円を投じながら契約トラブルを生み、国内で春樹監督による製作『REX 恐竜物語』(松竹配給)に切り替えられた」ことで公開スケジュールも決まっていたことから、急遽、国内での製作に入らねばならなくなったという。

 しかし、公開までの期間が短く、角川は数人の監督に打診したが引き受けられる者はおらず、自ら監督せざるを得なくなった。おそらく大林もそうした監督候補の一人だったのだろう。実際、大林は『REX 恐竜物語』と1週違いで公開された『水の旅人 侍KIDS』(93)を手がけており、物理的に不可能という事情もあったのだろう。

 あだしごとはさておき、『転校生 さよならあなた』が角川映画で実現した時、あれほど『転校生』を角川映画として作ることが出来ないことを嘆いた角川春樹の姿はなかった。1993年、麻薬及び向精神薬取締法関税法違反の容疑で逮捕され、角川映画から姿を消していた。

www.youtube.com

 だが、角川春樹の映画復帰は早かった。保釈期間中に角川春樹事務所を設立し、再び映画製作を再開したのだ。復帰作は自らが監督した『時をかける少女』(97)である。なぜ、かつてプロデュースした作品をリメイクするのか。その理由を角川は、これまでプロデュースしてきた作品の中で製作費をかけずにリメイクできるものはこれしかなく、また10年後、20年後にもリメイクされる可能性が高い作品であることを挙げている。そして、筒井康隆の原作を、自ら新しく興した出版社の文庫に入れることが可能になったことを付け加えている。

www.youtube.com

 こうしてリメイクされた『時かけ』は時代設定を昭和40年代に設定し、モノクロで、CGもオプチカルも使わずに撮られた。これは、まさに大林版の真逆のアプローチこそがリメイクの可能性と勝因になり得ると考えた上でのことだろう。「今回がリメイクというより、前の作品の方が今回のリメイクというような感じにしたかった」(『キネマ旬報』1997年11月下旬号)という角川の発言は、細田版にも通じる再映画化の高度な戦術と言えよう。なお、この角川春樹監督版『時かけ』のナレーションは原田知世が担当している。

 ところでこの時期、大林はしきりと『時かけ』リメイク構想を語っていた。ハルキ文庫に収録された『時をかける少女』の巻末解説で詳しく語っているので引用しよう。

もしぼくにもう一度チャンスがあれば、今度はもう特撮など使わず、これをある兄妹の物語として描きたいと考えていた。“愛し過ぎた兄と妹”との“禁断の恋”の物語である。深町君は、死後の世界から妹に会う為に還って来たのである。タッチは日本映画の抒情的古典、木下恵介監督の〈夕やけ雲〉のような味わいが宜しかろう。

  その後、『三毛猫ホームズの推理』(98)で大林はこの構想の一部を流用し、アンニュイな兄と妹の物語に創り変えている。それにしても、角川春樹大林宣彦もCGが隆盛を迎えようとしていた時代にあえて拒絶し、VFXを使わない『時かけ』を撮ろうとしていたのが興味深い。こうして見ていくと、自分たちが作った『時かけ』に、プロデューサーも監督自身も縛られまいと抵抗してきたことが分かるはずだ。細田版が原作をリスペクトしつつ解体して、見事に再構築させたのは、こうした角川春樹大林宣彦のリメイク構想を踏まえても、必然だったと言えるだろう。

『マルサの女』(第2回) 伊丹映画と幻影の撮影所

伊丹映画のエロス、原点はロマンポルノにあり

 伊丹映画と言えば、かつてはゴールデンタイムの映画番組では、ジブリ、『男はつらいよ』シリーズと並ぶ定番だった。特にフジテレビ系列の『ゴールデン洋画劇場』での放送が多かったと記憶するが、筆者は小学生の頃に『マルサの女』(87年)を初めてテレビで観て、伊丹映画の面白さに魅せられた。ただし、問題がひとつだけあった。伊丹映画はエロい! 今ならゴールデンタイムでの放送が憚られるほど、濃密な性描写が毎回付いてくるのである。

 『お葬式』(84年)の葬儀準備中に山崎努が愛人と抜け出して行う野外ファック、『タンポポ』(85年)の役所広司黒田福美の食を介した性描写、そして『マルサの女』は、山崎努が愛人との性交場面が強烈だ。行為の後、女は股にティッシュを挟んだまま立ち上がり、カメラは女の全裸の後ろ姿を捉えているが、尻の下に目をやると股の間からティッシュが見えているのが何とも艶めかしい。他にも政治家と電話しながら愛人の股間をまさぐる場面では、恍惚の表情を浮かべる女の顔を中心に見せたりと、小学生が見るには刺激が強すぎる描写の数々が伊丹映画の名物でもあった。したがって家族団らんの席で見ようものなら、当然気まずい雰囲気になる。

 それでも伊丹映画に一貫して性描写が毎回入ってきたのは、人間を描くためには、人間の二大欲求(食欲・性欲)を描くことが不可欠と考えたためだろう。実際、性描写と同じく、必ず食にまつわるシーンも印象的に登場する。食と性の描写に、伊丹自身が非常に興味を示していたことは、時としてそれらのシーンが本編から脱線して目立ちすぎることがあることからも窺えるが、性描写に関しては、伊丹の意図を支える技術が存在した。

 ここで伊丹映画のスタッフに注目してみたい。デビュー作『お葬式』は、製作会社ニュー・センチュリー・プロデューサーズ(以下NCP)のプロデューサー・岡田裕がスタッフ編成を行ったが、その直前に伊丹が出演した『家族ゲーム』(83年)を撮影した前田米造が監督作でも担当し、以来スケジュールが合わなかった2本(『タンポポ』『あげまん』)を除き、前田は伊丹映画の撮影を担い続けた。ここまでは、映画のスタッフリストを眺めれば分かることだが、NCPは日活出身の岡田らによって設立された制作者集団であり、亡くなるまで伊丹映画のプロデューサーを務めた細越省吾、全作の編集を手掛けた鈴木晄も日活出身である。彼らは共通して、かなりの数の日活ロマンポルノに携わった経歴を持っている。一般映画としてはかなり濃厚な伊丹映画の性描写は、伊丹の演出力と共に、それを支える技術者たちが居たから実現したものでもあったのだ。実際、前述の〈股間ティッシュ〉と全く同じ描写が、曽根中生監督のロマンポルノの傑作『わたしのSEX白書 絶頂度』(76年)にも登場する。

 伊丹映画は全作を東宝が配給したため、〈東宝映画〉というイメージが強いが、製作は伊丹が自身のプロダクションの全額出資で行った、言わば自主映画だ。初期作はスタジオにセットを作る余裕はなかったが、『あげまん』(90年)から遺作の『マルタイの女』(97年)まで、スタジオでの撮影は全て調布の日活撮影所で行われている。一見したところ、〈東宝の伊丹映画〉というイメージが今でも強いが、伊丹映画は日活ロマンポルノの流れを継承する存在でもあったのだ。

 

廃墟の中のスタジオ

 伊丹十三は、自らが設立した伊丹プロダクションで製作費を全額出資して映画を作り続けてきた。デビュー作の『お葬式』は低予算——と言っても1億円以上かかっているが、自主映画である以上、ヒットしなければ次回作はない。幸い伊丹映画は全10本のうち、半分は10億円以上の配給収入を上げていたが、後半の伊丹映画は製作費が膨らみ続けていたこともあり、必ずヒットさせねばならないというプレッシャーを自身にかけていたきらいもある。

 『マルサの女』は都内の様々な場所でロケーションされた映画だが、どうしてもセットを組まなければ撮ることが出来ないシーンも出てくる。前半の税務署、後半の国税局査察部などは、実際の場所を借りて撮ることも出来ないので、必然的にセットを組む必要がある。『あげまん』以降の伊丹映画では、日活撮影所のスタジオにセットが組まれたが、もちろん、これはスタジオのレンタル費用もかかり、美術費用も含め、潤沢な製作費がないと不可能である。本作の製作費は2億数千万円だが、スタジオに税務署のセットを建てる余裕はない。それならば、自由に使える無人の広大な建物に手を加えて税務署を作り出すしかない。そんなおあつらえ向きな場所が、新宿のごく近くにあった。

 現在、東京オペラシティが建つ東京都渋谷区幡ヶ谷。ここにかつて長らく建っていたのが東京工業試験所である。広大な敷地に大正時代に建てられた研究施設が建ち並び、雰囲気のある階段、各部屋、廊下などが幾つも存在していた。70年代末に筑波へ移転した後は長らく無人の廃墟となっていたのが幸いし、80年代の低予算映画では有名ロケ地となった。『海と毒薬』(86年)では戦時中の大学病院として使用され、まるで巨大なセットの様な雰囲気を醸し出していたが、時代ものだけに使用されていたわけではない。テレビドラマ『スクールウォーズ』などでも活用されたが、伊丹十三は、黒沢清監督の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(85年)に出演した際にもここでロケを行ったが、初監督した『お葬式』でも、劇中でCMを撮影するスタジオの控室の場面で、この廃墟を使用した。そして『マルサの女』では税務署、国税局がここに作られた。

 伊丹はこの廃墟をいたく気に入り、「将来取り壊して国立劇場が建つとか聞いているが、現在の使われ方のほうが遥かに文化的だ。大都会の一隅に過去と、そして映画の未来に向かって開いているこのような通路こそが文化財というものではないか。」(『「マルサの女」日記』伊丹十三 著/文藝春秋)と絶賛した。実際、本作では壁の色をピンク、薄緑などへ塗り替えて変化をつけ、家具、備品を巧みに配置することで、一見しただけでは廃墟で撮影したとは思えないほど、活気に満ちた税務署の職場を生み出している。こうした自由に撮影する場を確保できたからこそ、税務署内、国税局内での同僚たちとの丁々発止を丁寧に撮ることができたのだ。

 余談だが、もう一人、この廃墟に魅せられた若者がいた。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の現場に下働きとして撮影隊が来る前に現場の清掃などを担当した大学生である。彼は、こんな場所に広大な廃墟があることに驚き、自主映画で「廃墟を舞台にした女吸血鬼と若い男の物語」を作ろうと決意して、後日撮影を始めた。長い階段、廊下、各部屋にロウソクを立て、吸血鬼映画に相応しい舞台を作り出した。しかし、これまで劇映画を作ったことがなかった彼は早々に挫折し、この映画は未完成に終わる。仕方なく一部のフッテージを流用しながら、自身にカメラを向けるストーリーのない実験的な作品へと作り変えた。彼はその方法を以降も実践し、自分にカメラを向けて内面を独白し、時には暴力衝動を記録し、一部で高い評価を得た。彼の名を園子温という。それから30数年を経て、最初に作りたかった吸血鬼映画を、形を変えて実現させたのが『東京ヴァンパイアホテル』(17年)である。日活撮影所に巨大なホテルのセットが組まれたが、ロビーから正面にそびえる階段といい、どこかしら東京工業試験所の廃墟の記憶を感じさせた。伊丹は前掲書で「壁も廊下も階段も中庭も、すべてがディテイルに充満している。壊される前に映画まるまる一本をこの空間で作ってみたいものだ。」と語ったが、もし、この廃墟がまだ残っていたら、伊丹十三園子温も、自由奔放な映画をここで撮っていたかも知れない。東京工業試験所——この廃墟は、80年代の日本映画を影で支えた幻の撮影所と言えるのではないか。

 

【次回更新は9月上旬】

 

『マルサの女』(第1回) 金と流行語と女

映画監督・伊丹十三

 伊丹映画と若い世代に言っても、伝わるかどうか心もとない。伊丹十三が亡くなってから20年が過ぎると、『あまちゃん』の夏ばっぱや『ひよっこ』の鈴子を演じる宮本信子の夫が伊丹十三だと説明した方が通りはいいかも知れない。

 伊丹映画は一貫して、ユニークな視点から〈日本人論〉を展開してきた。〈日本人と儀式〉を描いたデビュー作の『お葬式』(84年)に始まり、第2作の『タンポポ』(85年)は〈日本人と食〉の物語である。究極のラーメン作りに挑むヒロインと、彼女を叱咤激励するトラック運転手との仄かな恋が、ラーメンの香りと共に漂ってくる物語は、言ってしまえば『シェーン』(53年)の換骨奪胎なのだが、日本映画らしからぬカラッとしたエンターテインメントになっており、国内よりも海外で人気を集め、監督になる前は俳優として『北京の55日』(63年)などにも出演する国際俳優だった伊丹が、今度は監督として世界的に知られるようになった。

 

税金をめぐる実体験を映画に

 そんな伊丹の監督第3作かつ最高傑作の呼び声高いのが『マルサの女』(87年)である。儀式・食に続くテーマは〈日本人とお金〉。もっとも、お金をめぐる物語はさして珍しいわけではない。成り上がって金を稼いだり、財産を失ったり、ドラマの重要な小道具としてお金は使い古されてきた。だが、伊丹は意外な視点からお金を描くことにした。それが税金である。

 これは伊丹が自費を投じた『お葬式』が予想外の大ヒットをしたことから、大きな収益をもたらしたものの、ようやく成功を掴んで得た金を、税金と称して容赦なく奪い取っていく国家権力に伊丹が呆然としたことが企画の原点となった。伊丹曰く、「身も心もすりへらして、自分で金出して、自分でリスクしょって、大勢の人に有形無形の借りを作って、およそ筆舌に絶する苦労をして、やっとこさお客さんに見てもらって、そうやって稼いだ金をですね、まるで自分のものであるかのように六十五パーセント出しなさい、といって平然と持っていってしまう。」(『「マルサの女」日記』伊丹十三 著/文藝春秋

 『お葬式』が宮本信子の父の葬儀を体験したことから生まれたように、『マルサの女』は伊丹の税金をめぐる実体験から生まれたわけだが、常識的に考えて、税金を取り立てる側と、脱税する側の対決を描くなら、映画の主人公に相応しいのはアンチヒーローたる脱税側だろう。百戦錬磨の国税局と戦う市民を主人公にした方が、税金に苦労する観客も共感を覚えるに違いない。ところが伊丹は、税金を取られる側ではなく、取る側、つまり税務署側から描くことにした。何故なら、伊丹映画は常に〈日本人論〉でもあったからだ。税金という切り口で日本人の顔を見せるには、取り立てる側から描いた方が多面的に様々な顔が描けるからだ。それにあの手この手の信じ難いような脱税の手口は、現実離れしたものばかりで実に映画向きなのである。

 

流行語となったマルサ

 タイトルの〈マルサ〉とは国税局査察部の略称。『マルサ!!東京国税局査察部』(03年)、『ナサケの女 〜国税局査察官〜』(10年)など、数年ごとにマルサを舞台にした連続ドラマが作られているので、業界内用語にすぎなかった〈マルサ〉は、今では一般に馴染みのある言葉になっている。そのきっかけを作ったのが『マルサの女』である。

 元々このタイトルは、国税局査察部で働く女性が主人公だから――という理由で伊丹十三が脚本を書く際に仮題として付けていたものだった。ところが、関係者へ取材をする際に、毎回タイトルが良いと言われるので、仮題のつもりだった『マルサの女』が正式のタイトルへと昇格することになった。テーマの斬新さと、国税局査察部というこれまで描かれたことがない世界の話という物珍しさも手伝って、公開前にはすっかり〈マルサ〉という言葉が認知された。その証拠に、1987年の「第4回新語・流行語大賞」の新語部門で〈マルサ〉は金賞を受賞し、伊丹十三宮本信子が受賞者となった。その後も伊丹映画では『あげまん』(90年)、『マルタイの女』(97年)など、それぞれの業界内でしか使用されていなかった隠語、符丁をタイトルにした作品が登場した。

 

メイクで作るヒロインの造型

 『マルサの女』のヒロインとなる板倉亮子は、当時の日本映画としては珍しい自立した女性像を打ち出している。税務署員から国税局査察官へとキャリアを積み重ね、女性の少ない職場で(実際、当時の女性査察官は全国で3人しかいなかったという)、バリバリと仕事をこなす姿は、それ以前の日本映画にはなかったキャラクターである。これは、1985年に制定され、翌86年から施行された男女雇用機会均等法を踏まえた、新たな時代に相応しいヒロイン像とも言える。

 ——と言うのは一面では事実だろうが、ぶっちゃけてしまえば、伊丹映画全10本のうち、8本で主役を務めたのが妻の宮本信子であるところからも明らかだが、ようは妻を主人公にするための設定でもある。最初にも書いたように、今では伊丹十三の妻というよりも、老婆役を中心に活躍する女優という印象が強いが、宮本は長らく役に恵まれない時代が続いていた。俳優時代の伊丹と結婚前に共演した大島渚監督の『日本春歌考』(67年)にしても、伊丹が大島にぜひと薦めてキャスティングしたものだ。伊丹は宮本について、「実力はあるのに主役がこない。というより主役の女優という幻想が不足している。よし、それなら、まず主役という既成事実を先に作れば幻想はあとからついてくるのではないか」(『「お葬式」日記』伊丹十三 著/文藝春秋)と、『お葬式』で主役に抜擢し、山崎努大滝秀治菅井きんらベテラン勢と互角にわたりあう姿を見せた。そして『マルサの女』となるわけだが、ここで宮本が大物女優、スター女優でないことが幸いした。

 伊丹が最初に考案したヒロイン像は「チビでタフで、積極的で、ユーモラスで、敢然と悪に立ち向かう(略)女の刑事コロンボみたいな造型」(『「マルサの女」日記』)だった。それに合わせてメイク、髪型が考えられていったが、日本の大物女優がヒロインなら、自分をいかに魅力的に美しく見せるかにばかり執着し、例えばシャーリーズ・セロンが『モンスター』(03年)で13キロ増量し、実際の連続殺人犯をモデルにした役を凝ったメイクで演じたような真似はできないだろう。伊丹は宮本にソバカスのメイクを施し、様々なカツラを被せてヒロイン像を探っていった。試行錯誤の末に行き着いたのが、ショートボブ、ソバカス、メガネという、一見したところ宮本信子には見えないキャラクターである。こうしてキャラクターを外見も含めて作り上げていったことも『マルサの女』の大きな魅力となっている。

 日本人とお金という身近なテーマを、税金という切り口で映画にし、全く知られていなかった業界用語を流行語に変え、従来の日本映画にはないヒロインを生み出す伊丹映画の多重的な面白さは、公開から30年を経てもまだ古びていないはずだ。

 

【第2回は8月24日更新】

『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(第2回)たった一本の映画でその名を刻む伝説の映画監督になるには?

唯一無二の作品を撮ってしまった映画監督のその後

 企画開始時に22歳、公開時は25歳だった監督の山賀博之。8mmの自主制作アニメという実績のみで、製作費8億円の劇場用長編アニメーションを監督するという壮大なプロジェクトを終え、興行こそは大きく振るわなかったとはいえ、作品の評価も悪くはなく、この映画のために作られた製作会社GAINAXも存続することになったのだから、25歳の監督がこの先も長く活躍することを誰も信じて疑わなかったはずだが、山賀は映画が公開された翌々月には故郷の新潟に帰ってしまった。

 その後、アニメの脚本は書いているものの監督としての経歴は、TVアニメ『まほろまてぃっく』『アベノ橋魔法☆商店街』を2001年に監督したのみ。映画監督としての第2作は、20年近く前から予告されながら、未だ実現していない。

 これからプロのアニメーション監督としてキャリアをスタートさせるにあたり、これ以上ないほど大きな花火を打ち上げた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』を撮った後、なぜ新作がないのか。「あまりにも今まで、あくせくと短期間の出世だけを考えて、セコセコと生きて来た自分というものに行き当たるわけです。要するに、僕が監督になることを決意してから『王立』に至るまでの日々ってのいうのは、自分で作ったプログラムを消化するだけの日々だったんですよ。」(『クイック・ジャパン VOL.18』太田出版)と山賀は自己解析するが、大学時代から「25歳までには劇場版の監督かテレビシリーズのチーフディレクターをやらなきゃならないと考えていました。しかし25歳で監督になれる時代じゃないわけですよ。『どうしたらなれるか』、ただそれだけです。そればっかり考えていました。」(『GAINAX INTERVIEWS』堀田純司GAINAX 著/講談社)と言うだけあって、本当に25歳で監督になってしまうと、そこで目的を達成してしまったことになる。しかも、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』は、山賀博之の内面世界を隅々まで使い切った作品である。

 

幻の山賀監督第2作『蒼きウル』とは?

 脚本家の新藤兼人は「誰でも1本は傑作シナリオが書ける。それは自分の体験を書くことだ」と言ったが、山賀も、それまでほとんど書いたことがないのに『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の脚本は書けてしまったという。

 映画が完成した後、山賀の映画監督第2作が動き出したのは90年代後半——『新世紀エヴァンゲリオン』が社会現象を起こした後である。『蒼きウル』と題された新企画は『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の50年後を舞台にした戦闘機の空中アクションを盛り込んだ続編的な構造を持つもので、元々は『エヴァ』の前に、庵野が監督するための新企画として山賀が新潟から呼び戻されてプロデューサー兼脚本担当として考えたものだった。既に原画作業まで入っていたが、スポンサーの都合で続行が不可能となり、製作中止となった。『エヴァ』がヒットした後、再始動するにあたって監督は山賀へと交代し、内容も大幅に見直されることになったが、数年ごとに今度こそ始動の報が流れるが進展の様子はない。最近では、2017年6月23日、庵野が設立した製作会社カラーから古巣のガイナックスへの未払金訴訟について、東京地裁立川支部で判決が出た際、ガイナックスが出したコメントの中に、「この六月からは劇場用アニメ大作『蒼きウル 英語題名 Uru in Blue』の制作を開始致しました。」とあり、何度目かの再始動が宣言された。

 

「たった一本の映画でその名を刻む伝説の男」

 高い評価を得ながら1、2本撮ったきり、長らく新作が途切れてしまう映画監督は少なからずいる。『地獄の逃避行』(73年)、『天国の日々』(78年)の後、『シン・レッド・ライン』(98年)までの20年間、映画界から身を引いていたテレンス・マリックはその代表的存在だが、マリックは2010年代に入ってからは、5本もの新作が製作され、今では毎年新作が観られるようになった。

 日本で、こうした寡作監督の代表を挙げるなら長谷川和彦だろう。『青春の殺人者』(76年)で監督デビューしたものの、第2作の『太陽を盗んだ男』(79年)以来実に38年、新作がない。とはいえ、何もやっていなかったわけではない。

 久々に映画を撮った監督を、“○年間の沈黙を破り”などと言うが、長谷川和彦は沈黙などしていない。撮影こそされなかったものの、常に半年後のクランクインを想定して新作を企画し、脚本を書いてきた。実際、『吉里吉里人』『禁煙法時代』『PSI』『つっぱりトミーの死』など印刷された脚本も存在する。ほかにも、デビュー間もない頃の村上龍が書いたシナリオ『コインロッカー・ベビー』(後に村上が小説に仕立て直したのが『コインロッカー・ベイビーズ』)など、数え切れないほどの未映画化企画を抱えている。そして、今に至るまで長谷川の呪縛となっているのが『連合赤軍』である。『青春の殺人者』の親殺し、『太陽を盗んだ男』の原爆製造に続く第3作が、連合赤軍の同士殺しとあさま山荘の攻防とは申し分ない大きなテーマだが、圧倒的な史実を前にフィクションで何ができるかを問われるだけに、30年にわたって抱え込んだままである。

 山賀博之にしろ、長谷川和彦にしろ、今もなおデビュー作に囚われ続けているように思える。それを超えなければ次回作を作れないという強迫観念が強すぎるという気もするが、ファンからすればそんな固いことを言わずに何でもいいから新作をみせてくれという思いだろうが、歳月が重なれば重なるほど、腰が重くなるのは想像に難くない。だが、見方を変えれば、世の監督が生涯かかっても1本撮れるかどうかという秀作を、デビュー作で撮ってしまったのだから、それを見せてもらっただけで充分ではないかという思いもある。

 園子温が半自伝的要素をこめて撮った『地獄でなぜ悪い』(13年)の劇中で映画監督を目指して自主映画を撮る主人公の長谷川博己は、こう啖呵を切る。

「オレはたった一本の名作が作りたいだけなんだ。この世界にはくだらない映画監督はごまんといる。何本も何本も作って家を建てているバカ、どうでもいい映画ばっか作って金をもらうバカ、オレはそんなのは嫌だ。たった一本の映画でその名を刻む伝説の男になりたいんだ」

 これは園子温が若き日に書いた未映画化脚本を元にしているが、主人公の台詞は才能が認められずに鬱屈していた当時の園子温の実感がこもっている。逆に言えば「たった一本の映画でその名を刻む伝説の男」に園子温はなれなかったらこそ、今では毎年数本の新作をがむしゃらに作り続ける道を選んだともいえる。その意味では、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』1本で〈伝説の男〉となった山賀博之という生き方も決して不幸ではないはずだ。

 

【次回更新は8月17日】