『マルサの女』(第2回) 伊丹映画と幻影の撮影所

伊丹映画のエロス、原点はロマンポルノにあり

 伊丹映画と言えば、かつてはゴールデンタイムの映画番組では、ジブリ、『男はつらいよ』シリーズと並ぶ定番だった。特にフジテレビ系列の『ゴールデン洋画劇場』での放送が多かったと記憶するが、筆者は小学生の頃に『マルサの女』(87年)を初めてテレビで観て、伊丹映画の面白さに魅せられた。ただし、問題がひとつだけあった。伊丹映画はエロい! 今ならゴールデンタイムでの放送が憚られるほど、濃密な性描写が毎回付いてくるのである。

 『お葬式』(84年)の葬儀準備中に山崎努が愛人と抜け出して行う野外ファック、『タンポポ』(85年)の役所広司黒田福美の食を介した性描写、そして『マルサの女』は、山崎努が愛人との性交場面が強烈だ。行為の後、女は股にティッシュを挟んだまま立ち上がり、カメラは女の全裸の後ろ姿を捉えているが、尻の下に目をやると股の間からティッシュが見えているのが何とも艶めかしい。他にも政治家と電話しながら愛人の股間をまさぐる場面では、恍惚の表情を浮かべる女の顔を中心に見せたりと、小学生が見るには刺激が強すぎる描写の数々が伊丹映画の名物でもあった。したがって家族団らんの席で見ようものなら、当然気まずい雰囲気になる。

 それでも伊丹映画に一貫して性描写が毎回入ってきたのは、人間を描くためには、人間の二大欲求(食欲・性欲)を描くことが不可欠と考えたためだろう。実際、性描写と同じく、必ず食にまつわるシーンも印象的に登場する。食と性の描写に、伊丹自身が非常に興味を示していたことは、時としてそれらのシーンが本編から脱線して目立ちすぎることがあることからも窺えるが、性描写に関しては、伊丹の意図を支える技術が存在した。

 ここで伊丹映画のスタッフに注目してみたい。デビュー作『お葬式』は、製作会社ニュー・センチュリー・プロデューサーズ(以下NCP)のプロデューサー・岡田裕がスタッフ編成を行ったが、その直前に伊丹が出演した『家族ゲーム』(83年)を撮影した前田米造が監督作でも担当し、以来スケジュールが合わなかった2本(『タンポポ』『あげまん』)を除き、前田は伊丹映画の撮影を担い続けた。ここまでは、映画のスタッフリストを眺めれば分かることだが、NCPは日活出身の岡田らによって設立された制作者集団であり、亡くなるまで伊丹映画のプロデューサーを務めた細越省吾、全作の編集を手掛けた鈴木晄も日活出身である。彼らは共通して、かなりの数の日活ロマンポルノに携わった経歴を持っている。一般映画としてはかなり濃厚な伊丹映画の性描写は、伊丹の演出力と共に、それを支える技術者たちが居たから実現したものでもあったのだ。実際、前述の〈股間ティッシュ〉と全く同じ描写が、曽根中生監督のロマンポルノの傑作『わたしのSEX白書 絶頂度』(76年)にも登場する。

 伊丹映画は全作を東宝が配給したため、〈東宝映画〉というイメージが強いが、製作は伊丹が自身のプロダクションの全額出資で行った、言わば自主映画だ。初期作はスタジオにセットを作る余裕はなかったが、『あげまん』(90年)から遺作の『マルタイの女』(97年)まで、スタジオでの撮影は全て調布の日活撮影所で行われている。一見したところ、〈東宝の伊丹映画〉というイメージが今でも強いが、伊丹映画は日活ロマンポルノの流れを継承する存在でもあったのだ。

 

廃墟の中のスタジオ

 伊丹十三は、自らが設立した伊丹プロダクションで製作費を全額出資して映画を作り続けてきた。デビュー作の『お葬式』は低予算——と言っても1億円以上かかっているが、自主映画である以上、ヒットしなければ次回作はない。幸い伊丹映画は全10本のうち、半分は10億円以上の配給収入を上げていたが、後半の伊丹映画は製作費が膨らみ続けていたこともあり、必ずヒットさせねばならないというプレッシャーを自身にかけていたきらいもある。

 『マルサの女』は都内の様々な場所でロケーションされた映画だが、どうしてもセットを組まなければ撮ることが出来ないシーンも出てくる。前半の税務署、後半の国税局査察部などは、実際の場所を借りて撮ることも出来ないので、必然的にセットを組む必要がある。『あげまん』以降の伊丹映画では、日活撮影所のスタジオにセットが組まれたが、もちろん、これはスタジオのレンタル費用もかかり、美術費用も含め、潤沢な製作費がないと不可能である。本作の製作費は2億数千万円だが、スタジオに税務署のセットを建てる余裕はない。それならば、自由に使える無人の広大な建物に手を加えて税務署を作り出すしかない。そんなおあつらえ向きな場所が、新宿のごく近くにあった。

 現在、東京オペラシティが建つ東京都渋谷区幡ヶ谷。ここにかつて長らく建っていたのが東京工業試験所である。広大な敷地に大正時代に建てられた研究施設が建ち並び、雰囲気のある階段、各部屋、廊下などが幾つも存在していた。70年代末に筑波へ移転した後は長らく無人の廃墟となっていたのが幸いし、80年代の低予算映画では有名ロケ地となった。『海と毒薬』(86年)では戦時中の大学病院として使用され、まるで巨大なセットの様な雰囲気を醸し出していたが、時代ものだけに使用されていたわけではない。テレビドラマ『スクールウォーズ』などでも活用されたが、伊丹十三は、黒沢清監督の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(85年)に出演した際にもここでロケを行ったが、初監督した『お葬式』でも、劇中でCMを撮影するスタジオの控室の場面で、この廃墟を使用した。そして『マルサの女』では税務署、国税局がここに作られた。

 伊丹はこの廃墟をいたく気に入り、「将来取り壊して国立劇場が建つとか聞いているが、現在の使われ方のほうが遥かに文化的だ。大都会の一隅に過去と、そして映画の未来に向かって開いているこのような通路こそが文化財というものではないか。」(『「マルサの女」日記』伊丹十三 著/文藝春秋)と絶賛した。実際、本作では壁の色をピンク、薄緑などへ塗り替えて変化をつけ、家具、備品を巧みに配置することで、一見しただけでは廃墟で撮影したとは思えないほど、活気に満ちた税務署の職場を生み出している。こうした自由に撮影する場を確保できたからこそ、税務署内、国税局内での同僚たちとの丁々発止を丁寧に撮ることができたのだ。

 余談だが、もう一人、この廃墟に魅せられた若者がいた。『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の現場に下働きとして撮影隊が来る前に現場の清掃などを担当した大学生である。彼は、こんな場所に広大な廃墟があることに驚き、自主映画で「廃墟を舞台にした女吸血鬼と若い男の物語」を作ろうと決意して、後日撮影を始めた。長い階段、廊下、各部屋にロウソクを立て、吸血鬼映画に相応しい舞台を作り出した。しかし、これまで劇映画を作ったことがなかった彼は早々に挫折し、この映画は未完成に終わる。仕方なく一部のフッテージを流用しながら、自身にカメラを向けるストーリーのない実験的な作品へと作り変えた。彼はその方法を以降も実践し、自分にカメラを向けて内面を独白し、時には暴力衝動を記録し、一部で高い評価を得た。彼の名を園子温という。それから30数年を経て、最初に作りたかった吸血鬼映画を、形を変えて実現させたのが『東京ヴァンパイアホテル』(17年)である。日活撮影所に巨大なホテルのセットが組まれたが、ロビーから正面にそびえる階段といい、どこかしら東京工業試験所の廃墟の記憶を感じさせた。伊丹は前掲書で「壁も廊下も階段も中庭も、すべてがディテイルに充満している。壊される前に映画まるまる一本をこの空間で作ってみたいものだ。」と語ったが、もし、この廃墟がまだ残っていたら、伊丹十三園子温も、自由奔放な映画をここで撮っていたかも知れない。東京工業試験所——この廃墟は、80年代の日本映画を影で支えた幻の撮影所と言えるのではないか。

 

【次回更新は9月上旬】