『映画評論・入門!』番外編「映画評論事件史 淀川長治差別発言事件」

淀川長治差別発言事件

 

映画評論・入門! (映画秘宝セレクション)

映画評論・入門! (映画秘宝セレクション)

 

 

 5月9日に発売となる拙著『映画評論・入門!』(洋泉社・刊)は、映画評論家の発言によってスキャンダルが起きたり、映画評論を読んだことで読者が犯罪に手を染めるといった〈映画評論事件史〉的な一面からも、映画評論とは何かを感じられるような本にしたつもりなので、映画評論なんて興味ないという方にも手にとっていただければと思う。詳しくは読んでもらうとして、刊行に合わせて、本には入り切らなかった事件を書いておきたい。

 ここで取り上げる「淀川長治差別発言事件」は、ウィキペディアにも載っている有名な話だが、概要だけならネットでも分かる。しかし、その先に、〈映画評論〉の視点から見れば、もっと重要な事実が隠れている。この事件によって1本の映画評論を淀川が書かざるを得なくなった事情は、ネットや既存の本でも明らかにされているが、その映画評論に何が書かれているかまでは言及されてこなかった。差別発言のみが注目されてきたこの事件でスルーされた〈映画評論〉を軸に事件の全貌を見ていきたい。

 

 映画評論家・淀川長治は、ヨドガワ語とも言うべき独特の言葉を持っていた。『日曜洋画劇場』の解説でもよく口にした「見事な見事な」「怖い怖い」などの関西弁ではおなじみの同じフレーズを重ねることによる強調や、独自の濁音(黒澤明がクロザワ・アキラになる)など、「何ともしれん」妙に耳に残る語感を駆使することで、映画の話に引きこんでしまう。

 そんな淀川が映画に次いで好んだのが風呂である。アーノルド・シュワルツェネッガーにインタビューした際にも、一緒にお風呂へ入りましょうといったニュアンスの発言をしていたが、実際に海外の巨匠監督と風呂に入って親交を深めたことがあったように、いわば親愛の情を表す言葉として、この言葉は活用された。晩年は、こうした独特のヨドガワ語も一般的になっていたが、44年前、この無邪気な発言が問題のきっかけになった。

 1973年9月4日、『サンケイ新聞』夕刊の「こんにちは」というインタビュー欄に淀川が登場した。それ自体は珍しいものではない。生前の淀川は、折にふれて新聞、雑誌で幼い時からの映画人生を語ることが多かったからだ。

 「映画鑑賞が“生命活動”そのもの/ご馳走」という見出しが縱橫にレイアウトされたこの記事は、兼子昭一郎という記者によってルポ風にインタビューがまとめられている。つまり、インタビュアーの地の文に加えて淀川の発言が「……」で構成されたスタイルである。この形式では、インタビュアーの雑感が記事の印象を大きく左右する。

 本文を一部引用してみると、「気違いや虫には悲壮感が伴うものである。一つの職業に全身全霊を打ち込むからに違いない。(略)ところが淀川さんには、その悲壮感がない。こんなに仕事を楽しむ人も珍しい。」という文章なのだが、これだけでも、良くも悪くもこの記者の個性が反映されている記事になっていることは分かるだろう。

 淀川が語った内容は、幼い頃から映画を観てきたという、これまでもよく語られてきたものだが、問題になったのは次の件だ。

  彼の体質は、映画の体質と一致する。

「映画のどこがいいって、あの庶民性が一番ですねえ。ソバ屋も大学の先生も同じように泣いたり笑ったりするんですからねえ。庶民性がわたしにぴったりなのねえ。はい、芸術性の高い映画はあまり好きになれませんよお」

 こどものころ、家の近くに貧乏人の部落があった。学校の行き帰りの途中に位置していた。両親はそこを通らずにすむように、電車の定期を買って与えたが、一度もそれを使わなかった。それだけではない。その特殊な部落にある銭湯に入ったこともあった。

「そのときわたし、この貧しい人たちと液体で結ばれたと思ったのねえ。エリートってだめですねえ」

 

夕刊『サンケイ新聞』(昭和48年9月4日)

  この後は、映画の仕事に就く話へ移るだけに、いっそう引用部分が目立つが、明らかに被差別部落を指した内容かつ、該当地区の銭湯に入ったことが特筆すべきことのように書かれているのは、通常の感覚で読めば明らかに差別的な記事だろう。

 もっとも、淀川の発言部分だけを取り出せば、自分の親には差別意識があったものの自分にはなく、一緒に銭湯に入ることも平気だったという発言に取れる。「貧しい人たちと液体で結ばれた」はギョッとするような表現だが、淀川にとって一緒に風呂に入ることは、あらゆる民族を越えて結びつく最良の手段という前提を知っていれば、他意がないことは分かる。

 この記事が出てから1か月が過ぎた1973年11月5日、部落解放同盟の中央機関紙である『解放新聞』が、「サンケイ新聞 あいつぐ差別」というタイトル記事を掲載した。「淀川氏(映画評論)が対談で部落の錢湯にはいったと」という見出しを添え、前掲『サンケイ』の記事を引用した上で、次の様に指摘した。

 これは両親の部落民に対する差別行為をそのまま肯定する差別発言である。さらに淀川氏が部落のフロに入ったことをことさらに書き立てることによって、無意識のうちに自分がすぐれた立場にあること、つまり部落民を差別していることをバクロしている。「部落民といっしょに食事した」といって、部落民を差別していないことを証明しようとして、ぎゃくに差別性を示すのと同じく、淀川氏のこの発言は部落差別そのものである。

 

『解放新聞』(1973年11月5日)

  そして、記事の文末には、これ以外でもサンケイ新聞が差別発言を多く掲載していることを踏まえ、「一〇月三日、大阪府連人権対策部はサンケイ新聞社に対してつよく抗議、一一月八日に糾弾集会をもつことをきめた。」と記されている。糾弾集会とは、部落解放同盟が差別事件と認識した事案について、差別発言を行なった者や関係者を呼び、事実関係を確認し、問題認識を糺すものである。

 11月8日に開かれた第1回の糾弾会に淀川の姿はなかった。サンケイ新聞側が淀川に連絡しなかったからだが、これが問題視され、12月14日に大阪市東区の府農林会館で開かれた第2回の糾弾会には淀川も出席した。会場には、府連各支部から約100人、『サンケイ』側の顔ぶれは、淀川の他に大阪の編集局長、東京・大阪両本社の編集局幹部らである。

 以下、『解放新聞』(1973年12月31日)の記事をもとに当日の様子を追ってみると、前回の欠席について淀川は「サンケイからなんの連絡もなかったので、出席のしようがなかった」と釈明した。そして差別発言について、「私は神戸出身で、差別の問題はよくわかっているつもりだった」「だから私は、あの発言は善意のつもりだったが、十五分間の対談を数十行にまとめたので真意が充分に伝わらなかった」と反省の弁を述べている。

 『解放新聞』では、これらの発言を「差別性をごまかそうとする発言がつづいた。」としている。次に、淀川が自らの言動について考えを述べた。「私は、人間はみんな平等だと常々から考え行動してきた」。

 この発言に対し、府連側は「ヒューマニズムの観点から部落問題をみるから、こんどのような同情、融和の思想がでてくるのだ。あなたのヒューマニズムは単なる“あわれみ”だけであって、なぜ、差別があるのかを根本から追求していない。まさにエセ・ヒューマニズムだ」と糾弾した。

 なお、この記事には「エセ ヒューマニズム追求/淀川氏自己批判サンケイ新聞社差別発言で」という見出しがつけられている。

 最後に次の糾弾会で「①この差別事件の分析と責任と今後の決意を表明せよ②『狭山の黒い雨』を部落問題の観点から批評せよ③これまでの一連の差別評論を明らかにし、分析せよ」との要求が出され、淀川も同意した。

 『狭山の黒い雨』(73年)とは部落解放同盟が製作した劇映画で、1963年に埼玉県狭山市で起きた女子高生への強盗強姦殺人事件——いわゆる狭山事件の映画化である。被差別部落出身の男が犯人として捕らえられ、一審では罪を認めて死刑判決となったものの、その後冤罪を主張して無期懲役が確定した。この映画が製作された当時は一審判決後の控訴期間中である。

 そして、1974年3月4日付の『解放新聞』には、同意通り、淀川による『狭山の黒い雨』批評が掲載されている。「これはただの映画ではない。云わねばならぬ人間の生活の差別の大きな問題を提示した作品である。」から始まる評は、〈部落問題の観点から批評せよ〉という要求に沿って、「犯人を勝手に作りあげるという許るされぬ不正への怒りの奥にもっと重大な問題が暗黒の形で横たわったショック」「この地区なら罠にかかった男にも世間は文句は云うまいというその底知れぬ残酷非道」「この地区のものさえが無力に近い弱さで作られた犯人を見送ってしまったその痛ましさ弱さがあふれていた」「映画が終わったが実は映画が終ったのではないことを観客はこのあと身をしみて感じるにちがいない。現に青春を失って十年、石川一雄氏はまず無実の身で捕われているその事実。」など、被害者と差別される側からの視点に寄り添って記されている。 

 映画としてはどうなのかという点にも触れている。「この映画はこのいまわしい瞬間を記録映画的なタッチで見せた。劇的に押しつけなかった。この演出この脚色が巧い。いわゆる『大人の目』でじっくりと見つめさす映画のたたづまいを持った。」「映画は常に第三者の冷静な目を意識して、この悲しい事実を、劇的には化粧していない。」「叫ばず劇的に泣かせず、新人須藤久監督のこの力作は、映画がここに生きてその怒りをこめたその一念を静かに語り描いたことで立派であった」。

 この批評の掲載をもって、淀川長治の差別発言事件は収束し、狭山事件も1974年10月に東京高等裁判所で被告に無期懲役判決が出ている。

 一方、後にこうした糾弾への批判も出てきた。『差別用語』(汐文社)では、「ここまでくると、淀川氏の知名度を計算に入れ、弱みにつけ込んだ“おどし”といわれてもしかたがない」と記され、『表現の自由と部落問題』(成沢栄寿 編著/部落問題研究所)でも「七十年余り前、全国水平社設立前に部落差別を不合理だと見た少年の心は一顧だにされず、エセ・ヒューマニズムだと追求され、『解同』理論に立つ自己批判を迫られるとともに、『解同』制作映画を批評することを約束させられた。(略)この高名な映画評論家の個性を無視し、自分たちの理論・思想に追随・同調を求めたのである。」と批判した。

 この問題の根本には、インタビューをまとめた記者の責任が大きいはずで、その記者の差別意識の方が深刻だと感じさせるだけに、淀川の責任だけがクローズアップされるのは酷だろう。ましてや『狭山の黒い雨』を批評の方向性も指定して書くように迫るのは、本質から外れている。しかし、淀川の知名度を利用したとばかりも言えない。もし、本当にそうなら、『サンケイ』なり大手のメディアで『狭山の黒い雨』を取り上げることを求めても、淀川ほどの映画評論家なら出来たはずだ。この批評は、単行本にも収録されておらず、淀川自身この事件のことには終生、触れることはなかった。

 それでも、晩年の淀川長治には〈ヒューマニズム〉を感じる瞬間が何度かあった。『シンドラーのリスト』(93年)について、「いいとこだけを見せてるの。例えば、シンドラーがこの戦争でどれだけ儲けたか。それから、ほかにもユダヤ人はたくさんいたのに、自分の工場で働く人だけ助け出す、そういうのが僕は耐えられない。」(『おしゃべりな映画館③』淀川長治・杉浦孝昭 著/マドラ出版)と発言した時など、シンドラーは現実的に自分が出来る範囲のことをやったのだから、それでいいじゃないかと思っていた筆者など、ずいぶん厳しい発言に思えたが、淀川長治にとってのヒューマニズムを示す瞬間でもあった。これは〈エセ・ヒューマニズム〉だろうか。

 『狭山の黒い雨』は現在では観る機会も限られており、筆者自身も未見なので、淀川の批評を読んで、いっそう観たいと思うようになった。映画自体にも興味はあるのだが、淀川がこの作品を、映画は映画として批評を書いたのか、それとも、指示されるままに書いたのか、映画を観ない限り判断がつかないからだ。

 しかし、かつて淀川の新聞での発言に抗議があり、糾弾の結果、淀川が批評を書かされたということのみが、この出来事をまとめた書籍や、それをもとにしたインターネット上のテキストでは流布している。差別事件の一例として見れば事実関係に間違いはないが、〈映画と批評〉という視点では、『狭山の黒い雨』を観て淀川長治による批評を読むという最も基本的な2つの機会が失われたままでいることは残念でならない。

 

【参考】

■映画評『狭山の黒い雨』

胸を突く描き方              

映画評論家 淀川長治

 

 これはただの映画ではない。云わねばならぬ人間の生活の差別の大きな問題を提示した作品である。

 犯人を勝手に作りあげるという許るされぬ不正への怒りの奥にもっと重大な問題が暗黒の形で横たわったショック。

 警察が犯人を捕うべくして逃したその手落ちにうろたえたあまり、これを埋めることのための犯人のでっち上げ。この映画はこのいまわしい瞬間を記録映画的なタッチで見せた。劇的に押しつけなかった。この演出この脚色が巧い。いわゆる「大人の目」でじっくりと見つめさす映画のたたづまいを持った。

 急所は犯人を作り上げるための罠とその網の張り場所である。この地区なら罠にかかった男にも世間は文句は云うまいというその底知れぬ残酷非道が、この映画ではあるがままの一瞬の記録映画感覚で描かれてゆく。それゆえにこそ胸を突く。

 映画は常に第三者の冷静な目を意識して、この悲しい事実を、劇的には化粧していない。脚色の見どころはこの作られた犯人に世間が無関心であったことと、この地区のものさえが無力に近い弱さで作られた犯人を見送ってしまったその痛ましさ弱さがあふれていたこと。それも実はこの映画を見終わったあとでそれがはねかえってくる描き方。

 しかしその伏せられた怒りが、やがて田中春男扮するこの地区の中年男の一見ボソリとした顔つきの中に疑問がついにこみ上げてこの地区のある場所で訴える。初めは彼も黙していた、それがたまりかねて怒りとなってきたときの、この中年男のその目のきびしさ。ここをその目のきびしさで見せた演出が効く。

 忘れにも罠にかかった青年。これを演じた桜井弘史はそのマスクの繊細さが気になったが彼の力演がその心配を吹き消して、人の良すぎる善良の哀れが、しかも喜劇的な皮肉さを見せてあふれ出た。その人の良さを巧みに利用する最も悪質な罠。しかもその調べ室でお茶が出る、するとそれだけで安心感抱いて調子づいてくるこの青年、ただ一杯のお茶で。ここにこの青年の長い間のいまわしい差別の中での育ちが感覚的に描かれて、画面のおかしさが怒りとなって盛り上る。

 映画が終わったが実は映画が終ったのではないことを観客はこのあと身をしみて感じるにちがいない。現に青春を失って十年、石川一雄氏はまず無実の身で捕われているその事実。叫ばず劇的に泣かせず、新人須藤久監督のこの力作は、映画がここに生きてその怒りをこめたその一念を静かに語り描いたことで立派であった。

 

『解放新聞』(1974年3月4日)