『愛の渦』☆☆☆★

監督/三浦大輔  脚本/三浦大輔  出演/池松壮亮 門脇麦

2014年 日本 ビスタ DCP 123分

 演劇空間を映画空間に置き換えるために

 劇団ポツドールを主催する三浦大輔の第50回岸田國士戯曲賞受賞作『愛の渦』は、ネットを見てマンションの一室に集まった年も境遇も違う男女8人が深夜0時から朝の5時まで乱交パーティが繰り広げられるという内容で、これまで2度上演されている。

  大根仁が映画監督デビュー作に本作を熱望し、実際に三浦と映画用の脚本執筆に入っていたものの、『モテキ』以前で映画実績が無いために頓挫したこともあったようだが(昨年、同じく三浦の『恋の渦』を映画化)、今回は三浦の手で映画化されている。大根版と、どれほどの違いがあるのかは不明だが、舞台版を観ていないので戯曲を読んでみると、かなり忠実に映画化されていることが分かる。設定、展開、登場するキャラクターもそのままと言って良い。最も大きな変更は、群像劇だったものを映画は池松壮亮門脇麦の2人を主役としてクローズアップしたことである。舞台版はマンションの一室のみで展開するが、映画は池松がATMからなけなしの金を卸すところから始まり、朝になって全てが終わって外に出てからも、もう一波乱待っている。映画のための付け足し部分が蛇足になっておらず、実にバランスよく配置されているのは三浦が監督したからだろう。

  パニック映画に見られるような極限状態で人間が剥き出しになる瞬間を映画は好んで描くが、もはや空も海も高層ビルも使い果たしたかのように思える。しかし、それは人間の生理が排除された、いわばキレイ事の極限状態だ。『狂った野獣』のバスジャックされた人質の子供のようにオシッコしたいと言い出して不憫に思った犯人の川谷拓三が窓から放尿させるようなシーンはなく、コトが終わるまで誰も便意を催さない。

  それに対抗する極限状態を限られた予算で描くには、間違っても自主映画監督が撮るようなエレベーターの中に閉じこめられる話ではない。朝まで退出することができない密室の乱交パーティという人工的極限状態を設定した三浦は、必然的に裸になり、しかも性行為を全員が積極的に行おうとするからこそ剥き出しになる人間性を描こうとする。もちろん、その中には排泄行為も含まれる(劇中には何度かトイレを使用するシーンがあり、トイレ後にシャワーで洗浄しない者は咎められる)。

  最初にソファーに女子大生、保育士、OLが座り、カウンターの椅子に大量のピアスをつけた女、男たちは床に座っている。この段階では男たちの地位は低く、女性上位の構図になっている。ごく普通の外見の保育士とOLは直ぐに打ち解けて会話を始め、それにすがるように、茶髪のフリーターは気軽に女たちに声をかけ、サラリーマンもそれに続く。このようにしてカーストが形成され、その場における身分差が明らかになっていく。おずおずとしたニートの男や女子大生は必然的に結びつき、工場に勤務する太った童貞男はピアスの女に声をかけ……といった具合に、順当に分相応な関係が生まれていく。やがてカーストが一部で変転し、ソファという上位カーストのみが座ることが可能な場に男の何人かが座り、女の中から床に引きずり降ろされる者が出てくる。『恋の渦』でも描かれたこういった三浦が得意とする構図は、図式的になりすぎると嫌味になるが、バカ話とスケベ話で埋められた如何にも凡庸な会話で展開するのが面白い。

  しかし、会話や展開は流石に名作戯曲と思わせるものの、前半の他人同士が徐々に探りあいながら、自分のしかるべきカーストを探るグダグダした時間が、舞台では客席と共有されたリアルな時間になるのだろうが、映画ではそのまま映画が停滞しているようにしかならない。演劇空間を映画空間にするために、映画の冒頭と最後に外のシーンを入れたり、部屋の美術や、撮影で様々な工夫が凝らしてあるものの、本質的な問題はそこではない。例えば「無言の間」を、リアルな「無言の間」ではなく、映画の時間で「無言の間」を見せないと、観客は退屈してしまう。同じ三浦の作でも映画『恋の渦』が優れていたのは、徹底して映像の言語に戯曲を組み替えることに徹していたからだろう。複数のカメラを用いて部屋の奥行き、人物の配置、移動も映像効果が計算され尽くしており、逆にプロの俳優を起用して、美術も丹念に揃えられた、ちゃんとした映画として撮られた『愛の渦』に映画としての不自由さを感じてしまう。

 もうひとつの問題としてエロの希薄さがある。もちろんそれは、裸やセックス描写の問題ではない。ハードコアポルノとして撮るのもひとつの方法だろうし、R-18に指定された映画としては大人しいものじゃないかという意見もあろうが、エロいことしか考えてない連中の映画なのに、画面からはエロが滲み出てこない。裸のない『恋の渦』には、そこかしこにエロが漂っていたが、本作は映画としての体裁を重視する過程でエロが漂白されてしまったようだ。演劇空間を映画空間に置き換えるための作業が、『愛の渦』をかしこまった映画にしてしまったのではないか。強固に作られた原作なのだから、映画を壊しにかかっても充分持つだけの耐久性を持っているはずなのだが。

  ただ、終盤の朝の描写には惹かれるものがあった。『四畳半襖の裏張り』の布団で交わる宮下順子らの後ろの障子が闇から陽の光へと移り変わる朝の描写以来の、というのは明らかに大げさだが、セックスと朝を映画で描いた中でも忘れがたいシーンになっている。