『小さいおうち』☆☆☆★

監督/山田洋次  脚本/山田洋次 平松恵美子  出演/松たか子 黒木華 倍賞千恵子

2014年 日本 「小さいおうち」製作委員会 ビスタ 136分

 隠された性と、隠されなかった現代への暗喩 

 山田洋次は日本で最も恵まれた映画監督である。82歳を迎えて、2年に1本のペースで、潤沢に予算をかけて撮りたい映画を作り続けているのだから。松竹に同期入社した大島渚は既に亡く、旧制高校同期の森崎東は資金難の中で新作をようやく完成させた中で、前作『東京家族』(13年)から、わずか1年で新作が公開されるのだから、山田洋次の恵まれた環境と、その頑健さを羨む監督は多いだろう。

 だが、映画監督は高齢になると、当然のことにもかかわらず作品のパワーが落ちたと揶揄される。スポーツ選手のように、全盛期の記憶で人々が称賛してくれはしない。晩年の黒澤明に『七人の侍』(54年)の頃のような力がないと非難めいた言説が投げつけられる世界だ。定期的に新作を作ることができるということの緊張感もまた大きいはずだ。近年の『おとうと』(10年)『東京家族』(13年)のリメイク路線は、オリジナル企画を立ち上げる気力が薄らいだか、その時間を惜しんでの選択だったか、あるいは作らねばならない映画に対する窮余の一策だったのか。作りたい映画が見当たらないからリメイクに走ったとは思いたくないが。それにしても、山田洋次ともあろう監督が、資質の異なる市川崑小津安二郎をリメイクしても仕方あるまい。それに、山田らしさを感じさせるキャラクターたち――『おとうと』で姪の結婚式を台無しにしてしまう愚弟の笑福亭鶴瓶、『東京家族』でオリジナルから設定を変更した妻夫木聡蒼井優の結婚間近のカップル――が、前者は鶴瓶が熱演すればするほど渥美清の不在が痛々しく迫り、後者は山田映画の真骨頂とも言うべき設定が、『東京物語』(53年)という枷で不自由さを囲っていることにもどかしさを感じるばかりだった。それゆえに、直木賞受賞の同名原作を映画化した『小さいおうち』は、内容的にもこれまでにない新境地を感じさせるだけに、期待を持って観た。

 冒頭の火葬場の煙突を捉えたショットに前作からの小津の連続性を思い出させるものの、間もなくそれがこれから語られようとする倍賞千恵子が演じるタキの死であることが理解される。主人が不在となったアパートの整理を親族たちが行うが、彼らにとって彼女は伯母であり、最後まで一人暮らしを続けた彼女に懐いて身の回りの世話をした妻夫木聡にとっては大伯母に当たる。ここから近過去への回想となり、まだ健在だった彼女に妻夫木が自叙伝を書くことを勧めて、身上が書き綴られる。ここから更なる回想に入り、昭和10年代の東京山手の洋館で女中奉公をした彼女の若き日が描かれるわけだが、安易な回想形式が幅を効かせる時代に、死後と生前の老人の暮らしを含みつつ、終盤の作劇も計算された二段階の回想は、やはり巧いものだと思わせる。現代を単なる回想のための位相に置くのではなく、過去と同等に重点を置いて描こうしている。

 山形から東京へ出たタキは最初の1年を小説家の屋敷で仕えた後、その家の妻の妹に当たる平井家へ仕えることになる。ここが表題の赤い屋根の小さいおうちである。和洋折衷のモダンな家と優しい家族――殊に妻の時子(松たか子)はタキにも親身に接し、彼女を生涯この家で仕えたいと思わせる。

 家自体が実質的な主役だけに、最近の低予算映画に見慣れた目には、丁寧に作りこまれたセットに瞠目させられる。嵐の夜、夫の会社の同僚である板倉(吉岡秀隆)が夫の帰りが遅れることを告げに来る。彼は2階の窓が風に煽られて激しく開閉しているので釘で打ちつけましょうと申し出る。タキに梯子をかけてもらい、何とか扉が閉められるが、結果として帰り損ねた板倉はその晩、泊まることになる。夜半、物音に怖気づいた時子は板倉を起こすが、その際、廊下で時子は一瞬の隙を盗むように板倉の唇に体を委ねる。

 以降、2人は密会を重ねることになるが、当然、窓の釘は嵐が去った後には抜かれたはずだが、窓は閉まったままである。後に召集令状が来て故郷に帰らねばならない板倉へ、タキに促された時子は手紙を書く。それを届けに出掛けるタキを見送る際に時子は2階の窓を開く。 

 「外の光が邪魔なのよ」と口にしたのは『実録・阿部定』(75年)の宮下順子だが、窓の開閉を外界とは遮断された世界で逢瀬を重ねる時子の象徴に据えたのは良いとしても、憧れの家=時子に、板倉が夢中で釘を打ちつけるシーンに比べて、閉じられた窓が開かれるシーンの印象は薄い。ここは一人の女性の決意を感じさせなければならなかったのではないか。

 こうした女性への奥手ぶりは、本作から性的な描写を禁欲的なまでに除外してしまう。セックスシーンが無いことを問題にしているのではない。原作から脚色する段階で、山田洋次は時子と夫の関係性を改変している。原作では時子はコブつき再婚であり、夫との性交渉も感じられない。それゆえ夫の会社の同僚との不倫関係も、さもありなんとなるが、映画では夫婦関係は良好で、幸福な暮らしを送っている。それでも他の男を愛してしまうことがドラマを生むはずだが、本作は女中の視点から描いているので、そこには踏み込まない。山田洋次は最初から不倫妻の話になど興味は無かったようだ。

 では、この映画で何を描こうとしたのか。オリンピック開催に浮かれる戦前の日本が進んだ道を、現代に重ねあわせて警鐘を鳴らそうとしたというのが、ひとつの答えになるだろう。だが、同時代を舞台にした『母べえ』(08年)では治安維持法の圧政による被害者と暗い時代を強調して描きすぎた反省からか、本作では、実は明るく楽しい時代だったという視点が導入されるものの、山田洋次はあの時代をノスタルジックに描くことを拒絶する。目まぐるしいまでに現代と過去を往復させ、警鐘のドラを鳴らしまくる。しかし、それによって、現在も過去もドラマ部分が薄味になってしまう。ドラマの中に没頭しそうになると、現代に戻ってしまい、台詞でその後の展開が説明されてしまう。倍賞千恵子のモノローグによる塗りつぶしも感興を削ぐこと甚だしく、殊に手紙を読むシーンが涙声になるというわざとらしさは不快になる。

 学生という設定の妻夫木が「日本は15年戦争で中国を侵略していたんだ」「南京では大虐殺があったんだよ」と、戦前の生活を懐かしむタキに食って掛かるが、妻夫木をネット右翼にしないところに山田洋次の現代性の喪失を思う。

 原作では、タキが時子に対する憧憬を匂わせるが、映画では1シーンだけ男装の麗人中嶋朋子が時子の留守に尋ねてきた際に、タキが突然という感じで時子に抱く不安をペラペラと話し始める。それ以前から、タキが時子に思い入れを持っていることを示す機会――時子が着物の裾を乱して座り、タキに足を揉んでもらうシーンが何のフェティシズムも官能性もない――を活かせていないので、唐突なシーンに映ってしまう。

 性愛に結びつく描写は厳重に隠されながら、戦前と現代を重ねあわせる意図は前面に出た結果、歪な映画としての印象のみが残る。そして、音楽が共に久石譲で、アコーディオンを使った似た楽曲が使用されているからというわけでもないが、同時代を舞台にした宮﨑駿の『風立ちぬ』(13年)を横に並べると、山田洋次とは対照的に、空襲も一切描かず、現代との比較もモノローグにも頼らず、あの時代だけで描ききる宮崎の誤解を恐れない描写に賭けた姿勢が改めて思い出される。