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『ゲゲゲの女房』☆☆☆★★

映画で漫画家を描くには……

 鈴木卓爾監督の長編第2作『ゲゲゲの女房』は、かつての日本映画にあった、そのドラマチックな顔立ちこそを映画と呼びたくなるような女優に匹敵する魅力を持つ吹石一恵を余すところなく映しだした映画である。前作の『私は猫ストーカー』(2009)は、星野真里という、こちらも本来映画との相性が良い女優を『さよならみどりちゃん』(2004)以降、活かすことができていない日本映画への苛立ちを解消する為に、鈴木卓爾は自主映画や短編の監督から長編商業映画の監督へ転じたのだと信じたくなるほどだったが、この2本でいよいよ20代後半の女優を、映画でその魅力を再度開花させる監督として位置づけられたのではないだろうか。

 もっとも星野真里に比べれば、吹石一恵の活躍は近年めざましい。殊に大河ドラマ新選組!』(2004)以降は、映画でも園子温監督の『紀子の食卓』(2005)へ主演し、現在に至るまで多くの助演も含めた経歴はよく知られるところだ。ただ、10年前、三原光尋監督の『あしたはきっと…』(2000)で蹲踞の姿勢で空手の組手を見せるシーンの彼女の体の曲線、上目づかいの表情、太い眉にすっかり魅せられた者としては、20代半ばの『紀子の食卓』に続く、20代最後の代表作を期待していた。その有無で女優としての30代の風景が随分と変わる筈だけに鈴木監督が「写真で拝見した、武良布枝さんのお顔にあったたおやかな印象、それをフィクションに置き換えた時、吹石一恵さんの陽気な品の良さ、そのような波動が、ドドンと理屈を超えた強度として、布枝さんに重なる気がしたのです。」(パンフレットより)と惚れ込んだ上で起用した作品に出逢えたことは、吹石一恵にとって、これ以上ない僥倖というものだ。

 冒頭、やや曲がった田舎道を自転車で進む女性の後姿が映しだされる。ハイキーのその映像は、やがて落ち着いたセピアになるが、HDで撮影された本作はフィルムレコーディングされた版と、そのままデジタル上映された版があるようだが、フィルム版でしか観ていないので撮影(たむらまさき)の意図通りの色調で映されているのか判然としない。それは兎も角として、正面から走る自転車を映しだすと、それが布枝(吹石一恵)であることがわかる。ここから吹石一恵を眺め、舐めまわし、視姦を楽しむとも言うべき映画が始まる。酒屋を営む実家で働く布枝をカメラが横移動して彼女の側に寄り添う。芝居と彼女の動きに沿って上手と下手に流れるように動くカメラに見惚れていると、ふと、彼女が片方の耳にかかった髪を掻き上げる。もうこの辺りから、不味いぞ、この感じはと思っていると、「雪が降ってきたぁ」と夜の庭で空を見上げた彼女がつぶやく顔のアップをあおりで捉えたショットが映しだされる。これが決定的だ。くぼみのある瞼、頬から口元にかけての曲線とそこに落ちる影、陰鬱にも思えた顔が瞬時に雪によって明るさを見せるその顔は、いつまで見ていても飽きることがない。その造形の豊かさが映画そのものだと見惚れてしまう。予告篇にも使用されている夫の資料を廊下に投げ捨てる時の、手をプラプラと振りながら憤る表情、自転車の後ろに乗りながら夫と「チキンカレー!」と声を揃える時の大きく見開いた目など、吹石一恵の表情の集積が映画になったとだと言いたくなる。

 『ゲゲゲの女房』は女優・吹石一恵を見る映画である。で、終わって良いのだが、鈴木卓爾が監督した漫画家の映画という一点で別の興味も出てくる。つまりは『トキワ荘の青春』(1996)で藤子不二雄Aを演じた鈴木卓爾が、今回は監督に徹し、同じく俳優兼業の脚本家・宮藤官九郎を主演に迎えて、漫画家映画をどう撮ったのかという興味である。しかし、著名な漫画家を主人公にした映画は退屈にならざるをえない。『トキワ荘の青春』や『美代子阿佐ヶ谷気分』(2009)でも、そこから時代性と貧乏を取り除いてしまうと何も残らない。小説家と違って、他者や異性に対して自己陶酔的にアピールし、アクティヴに動き、恋愛に走る積極性は、映画になるような国民的人気漫画家たちは持ち合わせていない。トキワ荘グループで言えば森安なおやが、唯一そういった無頼的雰囲気を持ち合わせており、孤独死に至るまでの破滅的でありながら脳天気さを併せ持った人生は実に映画向きだと思うが、知名度と作品の再評価が進んでいない点でどうか。結局、有名漫画家を主人公にすると狂言回しにとどまり、周辺に居る人物たちが動くことで物語が動き始める。そこで起きる小さなエピソード群は映画よりも、15分~30分ほどの連続テレビドラマこそが映像化に相応しい場だ。だからこそNHKで『マー姉ちゃん』(1979)、『まんが道』(1986-87)、『これでいいのだ』(1994)、『ゲゲゲの女房』(2010)と漫画家モノが何度となく製作され、その大半が人気を博した理由にもなろう。   

 本作では、結婚、初夜、原稿料の交渉、出産といった物語上の山場は、全て帰結させずに次の描写に移行することを徹底している。布枝の結婚話が家族との食事中持ち出された後は、初対面の瞬間も、結婚を了承する瞬間も省略して、しげると正装で記念写真を撮っているシーンだ。フレームの外からのカメラマンの声で二人が距離を縮めるという歩幅の伸縮のみで、お見合いから5日で結婚という、最もドラマチックになるシーンを実にあっさりと描く。しげるが自宅に布枝を連れ帰った初夜、風呂に入るので背中を洗ってくれと朴訥に告げる。片腕のない自身の裸身を晒し、それを直視させた上で行為に移ると想像できるが、カラミは描かないにしても風呂場での背中を流すシーンを代わりに丹念に見せるに違いない、という予想はあっさり裏切られて風呂場が映されることはない。では、何が映っていたかと言えば、風呂場に向かう前に布枝が脱ぐ靴下だ。意を決して靴下を脱ぐ緩慢な動きは何とも官能的で、別に足フェチではないが、翌日の靴下の重ね履きと、足裏と尻を強調してローアングルで映す廊下の雑巾がけと共に何とも艶やかに迫ってくる。

 出産や、布枝がネジを巻く柱時計は、もっと象徴的に描くべきではないのか、などとあまりの堂々たる省略ぶりに心配にもなるが、そこをセオリーどおりに山場を作っていけば、小山が連続するだけの本来連続テレビドラマで作るに相応しい題材を映画でダイジェスト的に消化しているだけにしか見えなかっただろう。終息に持っていかずに次のシーンへと移行し続けることで、時間の流れも空間の位相も生者も妖怪も曖昧化され溶け合っていくのだ。

 本作の舞台は1961年だが、カレンダーの片隅に記された文字からしか示されない。東京駅や調布駅前は現在の姿をそのまま無防備に撮影しており、家出した布枝が姉の家からの帰りに立つバス停の背景にも現代の大きなマンションが映りこんでいる。これらのシーンで“現代”を排除することは容易い。『初恋』(2006)や『美代子阿佐ヶ谷気分』規模の小品でもデジタル合成でその時代を再現していたのだから。あるいは『トキワ荘の青春』では当時の写真を挿入することで時代と気分を作り出そうとしていた。本作ではそれらを拒否して東京駅や調布駅前で現代の建物や人々が存在する中で主人公夫婦や下宿人や傷痍軍人を前に立たせる。これは撮り方によっては随分と鼻につく手法の筈だが、たむらまさきの手にかかると背景が主張しすぎず、さもそれが当然であるかのように見つめることが出来てしまう。すると、カレンダーの1961なんて数字は遥か昔の剥がし忘れたものでしかなく、これは現在なのかもしれないとも思う。あるいは未来の日本の姿かもしれない。またはそこに映っているものたちは皆、死者かもしれないし、曖昧化された時空間の果てに映りこんでいる幻影かも知れない、あるいはこの建物こそは妖怪で、突然動き出すかも知れないとも思う。沖島勲の『一万年、後….。』(2007)と同じように過去も現在もない、窓の外には妖怪なのか怪物なのかが跋扈している一軒の古びた木造家屋を中心にした宇宙がそこにあるのだ。

 「貧乏は全然平気です。命まではとられませんけん」と片腕の無い主人公は力なく言う。しかし、貧しさのあまり餓死した知人の報を耳にすると笑いながら憤る。「餓死する人間がまだいるこの世の中が、新しい世界だなんて、どこの誰が言えますか」と。貧乏は悲しくて腹がへる。しかし、映画はそれを映せなくなってしまった。郷愁に差し替えてしか映し出せなくなってしまったのだ。どんなに精巧なCGでその時代を作り出しても、現代を前提に美化された過去でしかない。気分で描かれる貧乏や時代は、予算が豊潤であろうと少なかろうともその画面はおそろしく薄っぺらい。『ゲゲゲの女房』は、ただ無心に漫画を描き続けた男と、不条理劇の様にその世界に連れ込まれた女が、かろうじて得た穀物を口にし、共に寝食を繰り返して生きた緩慢な日々を、そのディテイルを丹念に描くことが映画で漫画家を描くことなのだと示してくれる。その画面の豊かさが貧しさを救う。