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『ライブテープ』☆☆☆★★★

演出/松江哲明  構成/松江哲明  出演/前野健太 DAVID BOWIEたち 長澤つぐみ

2009年 日本 カラー 74分 池袋シネマ・ロサ

  松江哲明がライブ映画の傑作を撮った。

 今年、既に『ドキュメント・メタル・シティ』を発表し、『あんにょん由美香』やその他の新作も予定されている松江の更なる新作が『ライブテープ』だ。本作は、前野健太を被写体に、吉祥寺で行ったライヴを記録したものだ。その試写が池袋のシネマ・ロサで行われたわけだが、元々撮影に関わったスタッフを集めて松江の自宅で完成披露を行う予定だったというが、編集を進める内にスクリーンで上映したいということになり、シネマ・ロサの支配人の采配によって、劇場で完成披露が行われることになったという。そういうわけでキャパが一気に大きくなったので、一足早く見せてもらうことができた。

 試写はレイトショー終了後なので、23時開始という深夜試写だが、一回きりの上映かつ、現在のところ公開未定であること、サンプルDVDも用意していないなど、レア感が溢れたせいか、あるいは音楽映画だけに劇場で観たいということか、また何より松江哲明の新作という期待もあってか、こんな時間にシネマ・ロサの前をミュージシャンから映画監督から脚本家から編集者から評論家、ライターなどが取り囲む異様な雰囲気となっていた。

 この作品に関しては、松江のブログを参照するか(→http://d.hatena.ne.jp/matsue/20090101)、『スタジオ・ボイス 09年02月号』の『松江哲明のトーキョー・ドリフター』を参照した方が早い。松江と前野の出会いは昨年7月11日に阿佐ヶ谷LOFT Aでの『SPOTTED701』のイベントで前野がライブを行ったのが最初だと思う。客席で見ていて、舞台上の松江が心底良いなあと繰り返し言っているのを聞いて、いつか作品に結びつくのではないかと思ったが、こんなに早く長編映画が出来上がるとは思ってもいなかった。

 本作は、今年の元旦に吉祥寺で撮影されたものだ。前野が街を歩き、歌う姿を1シーン1カットで撮影している。それもminiDVの限界である80分(LPモードを使用すれば1.5倍の120分まで記録可能だが、耐久性のある標準モードでの限界時間内で記録しようというカセを自ら課したのが本作の特徴でもある)ギリギリまでという制限付きで。

 正直言って、事前にそのカセを知っていたので、この作品にはその撮影スタイルへの興味が一番になってしまっていた。普段から他のライブ映像を観ても思うことだが、誰が監督したって違いがそうあるわけでもないし、撮影にしたってアングルが限定されているので、そう変化があるわけではない。せいぜい編集のヘタウマがあるぐらいのものだ。だから、いくら街を歩きながら歌うというところに目新しさがあるとは言え、そうこちらの予想の範疇を超えたものにはならないと思い込んでいた。だから、松江監督と撮影後に話す機会があった時も専ら撮り方しか聞かなかった。ステディカムは使ったのか、正面からばかり撮っているのか、(カメラは被写体を)周りこんだりしないのかとか。歌って歩いている“だけ”なのだから、どう撮ったが主体となる映画なのではないかと思っていた。

 ところが観始めるや、これまで観たこともないライブ映画になっていることに驚かされた。確かに歌って歩いているだけだ。しかし、吉祥寺がまるで巨大なライブ会場であるかのように見えてしまう。通行人全てがエキストラのように思えてしまうのだ。カメラは自由闊達に動き(撮影は近藤龍人)、前野健太ものびのびと歌っている。何故こんなことが出来るのか。予算がかかっているわけではない。カメラだってステディカムも使わずに確か三脚を一脚のように抱えて使ったか、一脚を使ったか、そんなアナログな撮り方をしているだけだ。切れ目なく撮影された1シーン1カットでありながら、撮影スタイルが気にならない。ごく当然のようにカメラはいつの間にか正面に回り、またいつの間にか後姿を捉えている。

 

 以下、とりあえず画面に映っていたものを採録風に書いていってみる(予備知識なく観たい人は読まないで。太字は歌った曲名)。

 冒頭は、着物で着飾った長澤つぐみが武蔵野八幡宮で初詣している姿の横顔をバストアップで捉え、やがてアップとなる。いきなり作りこんだ存在が画面を覆うので驚かされるが、彼女が導入部を担う。神社の境内を歩く後姿にタイトルがWる。そこにギターのリフが響く。神社の入口にもたれかかって立っている前野健太を画面は映し出し、既にギターを抱えている前野はここで『18の夏』を歌う。歌い終わると歩きだす。今度はそのまま歩きながら『豆腐』を歌う。警備員がカメラ前を横切るのも映されている。この辺りでこの作品のリズムに入っていける。街と歌と前野健太が同居しているその空間を記録していく。編集を行わないというカセはその時の時間がそのまま記録されることになるが、単にダラダラと記録しただけには松江哲明×近藤龍人だけに当然ならない。時には早急に、時には弛緩した時間が流れる。何故そんなことが可能なのか、考えながら画面を見つめる。 続いて道を挟んでマックが見えるあたりで『こころに脂肪がついちゃった』。母親が子供を自転車の後ろに乗せて横切る。

 吉祥寺の中心を貫く商店街・サンロードに入ると、バウスシアターが直ぐ間近に見えるので、本作の企画が生まれた発端がバウスシアターでの爆音上映だったということもあり、松江のことだから何かアクションがあるに違いないと思ってしまう。案の定、前野健太はバウス近くの柱に屈みこみ、『100年後』を歌う。一瞬フェードで黒が入るが音は継続したままだ。

 再びサンロードを歩きだす前野に、松江が話しかける。どれぐらいのテンションで唄っているかというようなことを聞く。80ぐらいと答える前野に120ぐらいでやってと松江。このやりとりを見て、やはり松江哲明は介入する映画監督だなと思った。カメラが回ると存在感を消してカメラの後に隠れるのではなく、画面外から前野健太を煽るのが松江らしいやりかただ。それは後半に行くに従って加速していく。ここで『生きている私』『こころに脂肪がついちゃった』。

 前野健太が進行方向を変えて露地に入る。ここはラムタラのある通りだ。エロDVD屋への愛情を示す寄り道と思えなくもないが、自販機で喉を潤す前野に松江は更に「もうちょっとカッコ悪く」と言う。

 サンロードに戻って今度は伊勢丹ディスクユニオンがある筋に入る。松江がサングラスを取りませんかと投げかける。躊躇しつつ前野は外し、通りすがりの母親が連れた子供にサングラスをあげてしまう。ここの突発的行為が良い。松江が色々と仕掛けていくから予定調和が壊れる。そんなカメラが回り始めたらミュージシャンのものになってしまうライブ映画には絶対するまいと、あの手この手で仕掛けるのが松江だ。それでいて、それが映画の流れの邪魔にも鬱陶しくならないのも凄い。ここで素顔の前野が歌うのが『このカラダ』。

 細い路地に入り、飲み屋の前に二胡を弾く男が居て、前野とセッションを始める。そして『ロマンスカー』に。前野が飲み屋のカウンターに前の座って『友達じゃがまんできない』。

 吉祥寺駅前に出て人通りが多くなるや、予備のサングラスを前野が再びつけて『ダンス』。

 南口へ出る。サックス奏者との共演を経て、山梨中央銀行前に立つ前野。カメラは道を隔てた場所から撮っている。松江が叫ぶ「そこで『sad song』!」。前野、その通り『sad song』を歌う。松江の介入の最たる箇所がここだろう。マーティン・スコセッシですらストーンズのライブに傍観的立場で撮影せねばならず歌う順番が分からず苦慮していた。結果ラストに妙な合成を入れたりして無理矢理自分の色をつけて作品にしていたが、松江は驚くくらい率直に介入してくる。歌う順番まで指示する監督の声が本篇に入っているのだから。普通ならこんな鼻もちならないシーンはないだろうし、ミュージシャンにも失礼だ。ところが松江哲明がやるとそうはならない。相互の信頼と、前野の歌が好きでたまらないという思いが、本篇中にそんな言葉が出てこなくとも、わずかなやり取りや、その場に生れる空気が観客にそれを気付かせる。

 更に南へ下り、武蔵野公会堂前で『青い部屋』。

 松江、歩きながら『天気予報』が出来るきっかけを前野に聞始めるが、やがて立ち止まり、松江が画面に入ってくる。これまで画面の端にわずかに姿が見切れることはあっても、大半は声による介入だった松江哲明がここに来て、全身を画面に入れ、前野と並んで話始める。ここからこの作品がポンと跳ねあがる。ライブ映画から、前野健太を反射させた松江哲明のセルフドキュメンタリーへ変貌を遂げると言ってもいいかもしれない。勿論、映画の体が変わるようなこともないし、前野健太を利用して自分語りにもっていくようなこともない。何故吉祥寺を歩き、何故松江哲明が元旦にこの映画を撮ったのか。前野健太との出会いと、松江を取り巻く忘れ難い出来事を、前野を通して描いていることが、前野の語る『天気予報』誕生秘話から察することができる。

 最後に井の頭公園で『天気予報』が大音響で響いた時、涙がこぼれた。松江哲明の作品で、はじめて泣いた。そこで何が語られ、『天気予報』がどういう形で歌われ、カメラがどう捉えられるか、それは実際に作品を観てもらうしかない。更にこの後、『東京の空』が歌われるが、そこでも何が映されているかは書きたくない。観てもらうしかないからだ。ただ、映画を観ていて、これほど幸福な気分になったことは久々だったとだけ付け加えておく。

 

 大島渚が1968年の新宿を『新宿泥棒日記』で記録したように、庵野秀明が1997年夏の渋谷を『ラブ&ポップ』で記録したように、松江哲明は2009年元旦の吉祥寺を『ライブテープ』の74分に記録した。

 私信なので書くのは何だが、本作の試写の誘いを受けた際に松江監督とメールをやり取りしていた時、松江監督は“「ラブ&ポップ」のラストのさらに先を目指した”と書いていた。『ラブ&ポップ』のラストは、『あの素晴らしい愛をもう一度』が流れる中、渋谷川を女子高生たちが正面を向いて歩く姿を1カットで捉えたものだ。35mmで撮影可能な約10分の中にそれぞれの歩幅で歩く姿を収めたドキュメントとして深い印象を残した。そういえばデビュー作『あんにょんキムチ』の中で酔った松江が亡くなった祖父を思い『あの素晴らしい愛をもう一度』を夜道で歌うシーンがある。本作は、渋谷川から更に街へと歩を進めた、正に“「ラブ&ポップ」のラストのさらに先”を描き、『ラブ&ポップ』のラストを超えた作品となった。

 この作品を観るにあたって、前野健太を知っておく必要はない。むしろ知らない方が良い。知らないミュージシャンが歌っているライブ映画が面白いのかという不安が驚くほど一瞬で吹き消される心地良さを体感できるからだ。本作の音の構造は面白い。マイクを6本使用したというだけあって、曲によってミックスが違う。だから街のガヤが最少にまで小さくなる曲もあれば、大きく入ってくる曲もある。最初はせっかく街で歌っているのだからガヤがもっと入った方が良いのではないかと思うほどクリアに歌が録音されているので思った。しかし、それでは直ぐに飽きるだろう。このミックスの違いで曲のメリハリがはっきり出て、終盤の盛り上がりにも活かされる。

 本作は何度でも繰り返し観て、様々な視点で語りたくなる魅力にあふれている。前野健太の歌を、ライブを、吉祥寺の街を、松江哲明の反射させたセルフドキュメンタリーとして、それぞれの視点で観返したい欲求に駆られる。

 ひょっとしたら、松江が『あんにょんキムチ2』を撮るなら、今だろうという意見があるかもしれない。『あんにょんキムチ』に登場した親族に不幸があり(劇場で配布されたプレスには、その辺りの事情が日付入りで掲載されている)家族構成に変化が生じた今こそ続編を撮るべきではないかと(個人的には『あんにょんキムチ2』は、松江哲明が父となり、子供が出来た時に観たいという思いがあるが)。しかし、松江は『あんにょんキムチ2』ではなく『ライブテープ』を撮った。明るく前向きな楽しい映画を撮って、その中に亡くなった親族や友人への思いを盛り込むことができる。前野健太と組めばできるという確信があったに違いない。だからこそ、ライブ映画+セルフドキュメンタリーという、融合しない筈のものが違和感なく融合し、まるで造作もないように傑作を撮ってしまった。

 本作の魅力はまだまだ書き足りない。しかし、それを散発的に長々と書く以前に、この作品が多くの観客の目に触れてほしいと思う。松江哲明前野健太を知っておく必要はない。何の予備知識もなくて構わない。ただ、劇場で音を体感して欲しい。それだけで、劇場を出てから街の景色や人の顔がまるで違って見える、そんな稀有な経験を多くの人にしてもらいたいと思ってしまう。それだけに、一刻も早く劇場公開して欲しい。『新宿泥棒日記』も『ラブ&ポップ』も公開は翌年初春だった。『ライブテープ』は2009年の空気が充満した映画だ。今年中に多くの観客に届いて欲しい。