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『性の放浪』☆☆☆★

映画 日本映画 ☆☆☆★ 映画監督 【わ行】 映画監督 若松孝二

監督/若松孝二     脚本/出口出足立正生 沖島勲)     出演/山谷初男  新久美子 水城リカ 小水一男 沖島勲

1967年 日本 若松プロダクション モノクロ シネスコ  78分

 この作品への予備知識は少ない。若松の著書『俺は手を汚す』と、足立正生の『映画/革命』*1などで僅かに知っていたぐらいだ。沖島勲の脚本に足立が少し手を加えたものであること、当時話題になっていた今村昌平の『人間蒸発』のパロディをやっているということなどは知ることができても、作品の全体像は想像できなかった。

 沖島は、『情欲の黒水仙』で若松の助監督をはじめて務め、続いて『密通』『白の人造美女』と就き、二本撮り(当時の作品の大半にはそういった形で参加した由)の『日本暴行暗黒史 異常者の血』『性の放浪』へと続いていく。『日本暴行暗黒史 異常者の血』は、若松作品の中でも最高傑作だと思っているので、連続で撮られた『性の放浪』へも過分な期待をしてしまうが、期待に違わぬ秀作だった。

 『壁の中の秘事』以降の作品で顕著な若松作品の象徴的建築物である団地が冒頭に示される。団地映画の傑作『テロルの季節』などを観ても思うことだが、団地をどう撮れば映画になるかを既に熟知しているかのように、ロングでパンして、13棟といった建物を画面に収めつつ、通路などを縦の構図で見せたりと、スルスルと団地をカットを積み重ねて見せていく。その時に不気味なのは、“イー”“ウワアー”といった唸り声のようなSEが画面を覆っていることだ。

 山谷初男が電車から降りて来る。そしてモノローグで、見覚えのない駅であることが語られる。そこから、何故そこに自分が居るのかを思い返していく。その過程をスチールを重ねていくことで見せるのだが、これが効果を上げている。何せ山谷初男というだけで、既に時空間は捻じ曲がるほどの異世界ぶりを例によって発揮しているのだから、新宿の雑踏を一人佇む姿を捉えたスチール一枚で、もう、ここではないどこかに観客は連れ出される。だから、以降のもう帰らないと団地の一室で待つ妻が煩いと思いながらもズルズルと帰り損ねて、やがては脱走犯(ガイラ)に金を持っていかれて一紋無しになってしまっても、山谷はむしろ清々したような顔つきで放浪する。女に引っ掛けられた後、レストランで食事するも置いていかれてしまい、無銭飲食となっても、下働きをさせてくれと頼み込んで、懸命に働く。そこには、嘗ての生活していた場から、どこでもないどこかへ逃れることができた喜びを内に秘めた男の姿があり、それは翌年に製作される足立の『性地帯 セックスゾーン』を連想させる。しかし、同僚の女にそそのかされて金を盗んで共に逃げることになるも、呆気なくまたも山谷は置いていかれる。ちなみに、この逃亡シーンを俯瞰のサイズで捉えたショットは素晴らしい。

 以降、終盤まで書き連ねたい欲求に駆られるが、あまりに深入りしてこの作品に引き込まれると危ないという意識が働く。沖島色の強い脚本であることは、時間も場所も超越してしまった山谷の放浪が延々と繰り返されることからも、明らかに足立脚本とは異なるのだが、それだけに、妙な時間の歪みを感じてしまい、本当にこういう映画だったのか、後から思い返すと彼方に蒸発してしまいそうな、おぼろげな印象として残っているだけだ。

 前述の『俺は手を汚す』の中で『性の放浪』の関連記事として、藤枝静男の『欣求浄土』*2にこの作品が取り上げられていると、該当箇所が引用されていたが、その部分を抜き出してみると、

 ― 章がスイッチを消して黙っていると、この若い友人が、自分の感心したというピンク映画を観ることを勧めてくれた。三本立ての最期の番組みで「性の放浪」というのがそれだというので、早速映画館に電話をかけて上映時間を確めておいてから夕食後しばらくして出かけた。―中略―強姦が終わると女はぐったりとして気を失っている。男が女の鼻のところへ掌をあてて生存を確かめて、それから近くに放り出されたハンドバッグから金を盗んで逃げて行く。次はまたちがう町になる。やはり通行人は一人もいなくて、男が立ち止まって首を曲げると、その方角の家の奥で夫婦が交接している。また少し歩いて見当をつけてのぞくと、その家でも交接している。みんな同じことをしている。以上が「性の放浪」の主要部分であった。最後に、この男が東京の上野駅らしいところの改札口から出てくるところがうつる。男が沢山の乗客にまじって吐き出されてくると、駅の構内では映画のロケーションをやっている。カメラの横に反射板を持った男が立っている。板の裏には「蒸発」と、題名らしいものが書かれている。そして全身ピンク色に染まって出てきた彼の痩せた妻が、いま俳優の一人として、ポーズをつくってカメラに向かって歩いて行く。ここのところは前の新聞の映画欄で読んだ問題映画と同じだ。

 真面目な映画だ、と章は思った。


藤枝静男 『欣求浄土』より)

 と、書かれている。長らく自分にとっては、『性の放浪』の内容を伺い知ることができるのは、この文章だけだった。作品を観ることが出来てからこの文章を読み返すと、ディテイルが違っている箇所が多いことに気づくが、作品の雰囲気は最もよく伝わっていることが分かる。唯一の問題は、終盤の箇所で、<全身ピンク色に染まって出てきた彼の痩せた妻>と書かれていたのが印象的だったので、どんな見せ方をしているのだろうかと思っていた。パートカラーでピンクに塗りたくられた女が登場するのかと思っていたので、フィルムの欠損がないとするなら、上野駅で撮影クルー(監督役は沖島勲!)に囲まれた女はごく普通の格好でモノクロのままだったということになる。『人間蒸発』の露骨なパロディで終わるので苦笑しつつも、『欣求浄土』のディテイルの誤り、ありもしないシーンの創造は、観終わった途端にスルスルと手から滑り落ちるかのように、果たして今見た映画は存在したんだろうかと思わせずにはいられない―、劇場に来る前にアルコールが入っていたからだけとは言いたくないような―、若松作品の中でも最もおぼろげな作品になっていたということを実感しただけに、納得できてしまう。だから自分は、観終わった直後に、もう一度観たいと呟かせてしまうのだ。今観たものが本当に存在したかを確認するために。

 尚、観るに当たって一応注意を払っておこうと思ったのは、この作品は完全なる若松監督作品ではないということだ。若松が配給の仕事で1日参加できず、千葉でのロケを足立正生が代わりに監督したという。どの箇所がそうなのか、見当をつけようと思ったが、わからなかった。