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『ロッパの水戸黄門』と『古川ロッパ昭和日記』(1)

『ロッパの水戸黄門』の発見

 このところ、古川ロッパを目にする機会が多い。去年出た『哀しすぎるぞ、ロッパ 古川緑波日記と消えた昭和』(山本一生・講談社)という評伝に始まり、今年に入ってから『ロッパ食談 完全版』『ロッパ随筆 苦笑風呂』(河出文庫)が新たに書店に並ぶようになったのは、なんとも奇特というべきか。はたして今、古川ロッパが説明なしに受け入れられるのか、と思っていたら、特集本『古川ロッパ 食べた、書いた、笑わせた! 昭和を日記にした喜劇王』(河出書房新社)が出た。

 先日もCSの衛星劇場で未見だった『新馬鹿時代 前篇』が放送されたので、つい見入ってしまった。警官(ロッパ)と闇屋(エノケン)の追っかけが延々続く昭和22年に東宝が製作した前後篇の大作である。驚いたのは、砧の東宝撮影所に作られた高架の上を電車までが走る巨大な闇市のセットだ。これを見たいがために、この映画が長らく気になっていた。というのも、〈せっかくこんな巨大なセットを組んだのだからモッタイナイ、若い奴がついでにもう1本何か考えろ〉というわけで、若手監督の黒澤明が、新人三船敏郎と組んで、このセットを再利用して撮られたのが『酔いどれ天使』なのである。

 映画とは皮肉なもので、セットを流用した『酔いどれ天使』は今でも名画座Blu-rayで観ることができるが、『新馬鹿時代』は高価なビデオが通販で一時期発売されただけで、先日のCSの放送がTV初放送だという。映画史的にもエノケンとロッパの共演作という以上の評価は見られず、小林信彦も「〈追っかけ〉の必然性はあるものの、気分的にリアルすぎて、私は前篇だけで投げた。」(『キネマ旬報 1974年7月上旬号 架空シネマテーク・黒澤だけしか頭になかった』)と、にべもない。

 後世に残らなかった映画について調べるには、当時の新聞、雑誌記事にあたるところから始まるが、古川ロッパの出演作となると、まずは『古川ロッパ昭和日記』(晶文社)を読むところから始まる。これは80年代後半に出版され、2007年には新装版として再発売された戦前篇・戦中篇・戦後篇・晩年篇からなる古川ロッパの人生が凝縮された日記である。『新馬鹿時代』について日記の戦後篇を開けば、昭和22年6月26日にクランクイン、8月23日にアップしたことがたちまち分かり、前後篇になった過程、撮影中のエピソードなどが細かく記されており、第一級の映画資料として活用できる。

 そのことを改めて感じたのは、2月26日に早稲田演劇博物館の主催で行われた「『ロッパの水戸黄門』とテレビドラマの黎明」という催しで『ロッパの水戸黄門』(1960-61)を観たからである。ロッパ最晩年の主演テレビドラマシリーズで、2011年にフィルムが発見された。

 発見にあたった大阪芸術大学映像学科教授の太田米男氏の説明によると、2011年、本作を製作した新星映画(山本薩夫深作欣二らの作品を作った同名会社とは別組織)の元社長(故人)の京都の自宅の押入れに16mmフィルムが所蔵されており、遺族より連絡を受けて調査にあたったところ、『ロッパの水戸黄門』全話の原盤(ネガ)と上映プリントと判明。既に酸化が始まって悪臭を放っており、原盤は保存状態が悪く、上映プリントは良好な状態だったという。

 次に本作を放送した毎日放送(関西のみの放送だったようだ)の権利部に連絡を取ったところ、1960年11月4日〜1961年1月21日にかけて13話が放送されたことを確認(ロッパの死は61年1月16日)。外部製作の買い取りということもあり、著作権毎日放送ではなく、新星映画に有ることが判明したことから権利を相続した遺族側が動き始め、太田氏は身を引いたという。毎日放送は上映プリントをSDテレシネ(=標準画質)した後、フィルムを遺族に返却してきたので、再び太田氏が連絡を受け、寄贈の仲介の労を取り、2014年2月に早稲田演劇博物館に本作の共同復元を提案。

 なぜフィルムセンターではなく演博なのかといえば、フィルムセンターではテレビ作品は低く見られる可能性があり、演博なら保存と見る機会が両立するだろうという判断があったようだ。そして同年10月「美術館・歴史博物館重点分野推進支援事業」に内定を得て、IMAGICAウェストに上映プリントのHDテレシネ(=高精細画質)を発注(劣化の著しい4・5・8話はSDテレシネ)し、明けて2015年1月に全13回分のHDCAM/DVDが納品され、今後、演博で各話が上映される予定だという。

 さて、こうした説明を受けて、いよいよ『ロッパの水戸黄門』が上映されることになった。

(この稿続く)

『愛の渦』☆☆☆★

監督/三浦大輔  脚本/三浦大輔  出演/池松壮亮 門脇麦

2014年 日本 ビスタ DCP 123分

 演劇空間を映画空間に置き換えるために

 劇団ポツドールを主催する三浦大輔の第50回岸田國士戯曲賞受賞作『愛の渦』は、ネットを見てマンションの一室に集まった年も境遇も違う男女8人が深夜0時から朝の5時まで乱交パーティが繰り広げられるという内容で、これまで2度上演されている。

  大根仁が映画監督デビュー作に本作を熱望し、実際に三浦と映画用の脚本執筆に入っていたものの、『モテキ』以前で映画実績が無いために頓挫したこともあったようだが(昨年、同じく三浦の『恋の渦』を映画化)、今回は三浦の手で映画化されている。大根版と、どれほどの違いがあるのかは不明だが、舞台版を観ていないので戯曲を読んでみると、かなり忠実に映画化されていることが分かる。設定、展開、登場するキャラクターもそのままと言って良い。最も大きな変更は、群像劇だったものを映画は池松壮亮門脇麦の2人を主役としてクローズアップしたことである。舞台版はマンションの一室のみで展開するが、映画は池松がATMからなけなしの金を卸すところから始まり、朝になって全てが終わって外に出てからも、もう一波乱待っている。映画のための付け足し部分が蛇足になっておらず、実にバランスよく配置されているのは三浦が監督したからだろう。

  パニック映画に見られるような極限状態で人間が剥き出しになる瞬間を映画は好んで描くが、もはや空も海も高層ビルも使い果たしたかのように思える。しかし、それは人間の生理が排除された、いわばキレイ事の極限状態だ。『狂った野獣』のバスジャックされた人質の子供のようにオシッコしたいと言い出して不憫に思った犯人の川谷拓三が窓から放尿させるようなシーンはなく、コトが終わるまで誰も便意を催さない。

  それに対抗する極限状態を限られた予算で描くには、間違っても自主映画監督が撮るようなエレベーターの中に閉じこめられる話ではない。朝まで退出することができない密室の乱交パーティという人工的極限状態を設定した三浦は、必然的に裸になり、しかも性行為を全員が積極的に行おうとするからこそ剥き出しになる人間性を描こうとする。もちろん、その中には排泄行為も含まれる(劇中には何度かトイレを使用するシーンがあり、トイレ後にシャワーで洗浄しない者は咎められる)。

  最初にソファーに女子大生、保育士、OLが座り、カウンターの椅子に大量のピアスをつけた女、男たちは床に座っている。この段階では男たちの地位は低く、女性上位の構図になっている。ごく普通の外見の保育士とOLは直ぐに打ち解けて会話を始め、それにすがるように、茶髪のフリーターは気軽に女たちに声をかけ、サラリーマンもそれに続く。このようにしてカーストが形成され、その場における身分差が明らかになっていく。おずおずとしたニートの男や女子大生は必然的に結びつき、工場に勤務する太った童貞男はピアスの女に声をかけ……といった具合に、順当に分相応な関係が生まれていく。やがてカーストが一部で変転し、ソファという上位カーストのみが座ることが可能な場に男の何人かが座り、女の中から床に引きずり降ろされる者が出てくる。『恋の渦』でも描かれたこういった三浦が得意とする構図は、図式的になりすぎると嫌味になるが、バカ話とスケベ話で埋められた如何にも凡庸な会話で展開するのが面白い。

  しかし、会話や展開は流石に名作戯曲と思わせるものの、前半の他人同士が徐々に探りあいながら、自分のしかるべきカーストを探るグダグダした時間が、舞台では客席と共有されたリアルな時間になるのだろうが、映画ではそのまま映画が停滞しているようにしかならない。演劇空間を映画空間にするために、映画の冒頭と最後に外のシーンを入れたり、部屋の美術や、撮影で様々な工夫が凝らしてあるものの、本質的な問題はそこではない。例えば「無言の間」を、リアルな「無言の間」ではなく、映画の時間で「無言の間」を見せないと、観客は退屈してしまう。同じ三浦の作でも映画『恋の渦』が優れていたのは、徹底して映像の言語に戯曲を組み替えることに徹していたからだろう。複数のカメラを用いて部屋の奥行き、人物の配置、移動も映像効果が計算され尽くしており、逆にプロの俳優を起用して、美術も丹念に揃えられた、ちゃんとした映画として撮られた『愛の渦』に映画としての不自由さを感じてしまう。

 もうひとつの問題としてエロの希薄さがある。もちろんそれは、裸やセックス描写の問題ではない。ハードコアポルノとして撮るのもひとつの方法だろうし、R-18に指定された映画としては大人しいものじゃないかという意見もあろうが、エロいことしか考えてない連中の映画なのに、画面からはエロが滲み出てこない。裸のない『恋の渦』には、そこかしこにエロが漂っていたが、本作は映画としての体裁を重視する過程でエロが漂白されてしまったようだ。演劇空間を映画空間に置き換えるための作業が、『愛の渦』をかしこまった映画にしてしまったのではないか。強固に作られた原作なのだから、映画を壊しにかかっても充分持つだけの耐久性を持っているはずなのだが。

  ただ、終盤の朝の描写には惹かれるものがあった。『四畳半襖の裏張り』の布団で交わる宮下順子らの後ろの障子が闇から陽の光へと移り変わる朝の描写以来の、というのは明らかに大げさだが、セックスと朝を映画で描いた中でも忘れがたいシーンになっている。